瞑想をやめたくなったとき — 飽きた・意味がない・戻り方

つまずき・悩み

瞑想をやめたくなるのは、ごく自然なことです。続けている人のほとんどが、一度はそう思います。
やめたい理由が「飽きた」「意味が分からない」なら、やめる前に、やり方か期待のどちらかを変える余地があります。
一方、不調が出ている、生活を圧迫している、という理由なら、やめて差し支えありません。やめることは失敗ではなく、いつでも戻れる道です。

やめたくなるのは普通のこと

瞑想を始めて数週間から数か月のあいだに、「もうやめようか」と思う時期は、ほぼ必ず訪れます。初めの新鮮さが薄れ、劇的な変化もなく、ただ息を数える時間が続く。そこで、「これに何の意味があるのだろう」という問いが浮かびます。

これは、瞑想に限った話ではありません。運動でも、楽器でも、語学でも、同じ時期があります。ただ、瞑想には特有の難しさがあります。上達が目に見えないことです。走れる距離や弾ける曲は分かりますが、心が静まった度合いは測れません。だから、「進んでいないのではないか」という疑いが、他のことより強く出ます。

やめたくなること自体は、問題ではありません。問題は、その気持ちをどう扱うかです。このページでは、やめたくなる理由を分け、それぞれにどう向き合うかを書きます。

やめたくなる理由を分ける

やめたい、という一言の中に、いくつかの違う理由が混ざっていることが多いです。まず、自分がどれに当たるかを見てください。

1. 飽きた
毎日同じことの繰り返しで、刺激がない。これはもっとも多い理由です。

2. 意味が分からない
効果を感じない。何のためにやっているのか見失った。

3. 時間がない
生活が忙しくなり、瞑想の時間が取れない。取ろうとすると負担になる。

4. 不調が出た
瞑想中や後に、不安、眠れなさ、気分の落ち込みなどが出てきた。

5. 義務になってしまった
「やらなければ」という気持ちが強く、坐ること自体が苦しい。

1・2・5は、やめる前に変えられることがあります。3は、形を変えれば続けられます。4は、やめるか、少なくとも減らすべき理由です。順に書きます。

「飽きた」とき — 飽きは瞑想の一部

飽きることは、瞑想がうまくいっていない証拠ではありません。むしろ、刺激を求める心が静かになりきれていない、ということが見えてきた段階です。

飽きたときに、私が勧めているのは、飽きている自分を観察することです。「飽きた」という感覚は、体のどこにありますか。落ち着かなさとして胸にあるのか、だるさとして全身にあるのか。「飽きた」という思いが浮かんでから、次に何を考え始めるか。こうして飽きを対象にすると、飽きそのものが瞑想になります。

それでも続かないときは、方法を少し変えてもかまいません。呼吸の瞑想を歩く瞑想に替える(歩く瞑想のやり方)、体を順に観るボディスキャンにする(ボディスキャン瞑想のやり方)、時間を短くする。瞑想の種類は多く、一つに縛られる必要はありません(瞑想の種類一覧 — 目的別に選ぶ)。

ただし、次々に方法を変え続けることは、別の問題を招きます。どの方法も、深まる前に飽きが来るからです。変えるのは一度か二度にして、あとは一つに戻ることをお勧めします。

「意味が分からない」とき — 期待を見直す

「効果を感じない」という理由でやめたくなる方は、瞑想に何かを期待して始めています。ストレスが減る、集中力が上がる、心が穏やかになる。そうした期待が、数週間で裏切られたように感じるのです。

ここで見直したいのは、瞑想そのものより、期待の形です。瞑想の変化は、多くの場合、瞑想中ではなく日常に現れます。しかも、「何かが増えた」ではなく「何かが減った」という形で現れます。怒りが前より早く収まる。眠れない夜に焦りが少し減る。他人の言葉に引きずられる時間が短くなる。こうした変化は、意識して探さないと気づきません。

効果を感じられない理由については 瞑想の効果を感じないのはなぜか で詳しく扱いました。また、「うまくできているか分からない」という不安は、瞑想がうまくできているか分からない に書きました。

仏教の側から一つ添えると、瞑想は本来、何かを得るための手段としてだけ説かれてきたのではありません。心を観る、という行為そのものが実践であって、結果は副産物です。「意味が分からない」という問いは、「何のために」という問いを一度脇に置いてみる機会かもしれません。

「時間がない」とき — 形を変える

生活の変化で時間が取れなくなるのは、仕方のないことです。この場合、やめるのではなく、形を変えてください。

  • 時間を短くする。20分が無理なら5分、5分が無理なら3呼吸。
  • 場所を変える。坐る場所が確保できなければ、通勤中や寝る前の布団の中で(寝ながら瞑想はできるか)。
  • 日常の動作に織り込む。歩くとき、食器を洗うとき、信号を待つときに、息に戻る。

「毎日20分坐る」という形だけを瞑想だと思うと、その形が崩れたときに「やめた」ことになります。しかし、3呼吸でも息に戻れば、それは瞑想です。習慣の作り方は 瞑想を習慣にする方法 をご覧ください。

「不調が出た」とき — やめてよい

瞑想中や瞑想の後に、不安が強くなる、気分が落ち込む、眠れなくなる、現実感が薄れる、といった不調が出ている場合は、話が別です。これは、やめる、あるいは大きく減らすべき理由です。

瞑想は万人に安全なものではなく、一部の方に不調を招くことがあります。長時間や高強度の瞑想がきっかけになることが多いですが、短い瞑想でも、もともと不安や抑うつの傾向が強い方、つらい記憶を抱えている方には、不調が出ることがあります。

この場合、「せっかく続けてきたのに」と思う必要はありません。瞑想をやめて、体を動かし、よく眠り、人と話してください。不調が続くなら、心療内科等に相談してください。瞑想は医療の代わりではありません。詳しくは 瞑想で不安や恐怖が強くなるとき と 瞑想の危険性 — 魔境・禅病とは何か に書きました。

「義務になった」とき — 一度休む

「やらなければ」という気持ちが強くなり、坐ることが苦しくなっているなら、一度休むことをお勧めします。

瞑想は、心を縛るためのものではなく、ほどくためのものです。「今日もできなかった」と自分を責めている時間は、瞑想とは反対の方向を向いています。そうなったら、数日、数週間、堂々と休んでください。

休んでいるあいだに、不思議なことが起きることがあります。坐っていないのに、ふと息に気づく。急いでいる自分に気づく。それは、瞑想が日常に染み出し始めた証です。休むことは、後退ではありません。

「やめた」と「休んでいる」の違い

ここまで読んで、「結局、やめてもいいのか」と思われたかもしれません。答えは、はい、やめてもいい、です。ただ、一つだけ提案があります。「やめた」ではなく「休んでいる」と呼んでください。

「やめた」と言うと、戻るときに「また始める」という決意が要ります。決意は重く、重いものは先送りされます。「休んでいる」と言えば、戻るときは「再開する」だけです。昨日の続きを、今日するだけです。

仏教では、修行を「退転(たいてん)」と「不退転」で語ることがありますが、私は、日常の瞑想にその言葉は重すぎると思っています。一度離れても、戻ればよい。戻ったときに、前より少しだけ坐りやすくなっていることも多いです。

戻るときは、以前の時間に戻ろうとせず、3分から始めてください。「20分坐っていたのに、今は3分しかできない」と比べないことです。3分坐れば、それで戻ったことになります。

康照から、ひとこと

私にも、坐りたくない日はあります。
そういう日は、短くします。10分だけ、と決めて坐ります。
それでも「やめた」とは思っていません。
瞑想は、積み上げるものではないのではないでしょうか。むしろ、何度でも戻る場所のようなものだと思っています。
離れていた時間が長くても、戻った瞬間に、そこは同じ場所です。
だから、やめたくなったら、やめていい。
そして、いつか気が向いたら、また一度だけ、坐ってみてください。

よくある質問

瞑想を数か月やめてしまいました。また最初からですか

最初からではありません。体と心は坐り方を覚えています。3分から再開して、少しずつ戻してください。以前の時間と比べないことが大切です。

飽きてしまったら、別の瞑想法に変えてもいいですか

かまいません。ただ、変えるのは一度か二度にして、あとは一つに戻ることをお勧めします。次々に変えると、どの方法も深まる前に飽きが来ます。

瞑想をやめたら、効果はなくなりますか

瞑想中に身についた「気づいて戻る」という動作は、日常に残ります。完全に消えるわけではありません。ただ、続けているほうが安定するのは確かなので、短くてもよいので細く続けることをお勧めします。

やめたいと思うこと自体が、瞑想に向いていない証拠ではありませんか

そうは思いません。続けている人のほとんどが、一度は同じことを思います。向き不向きより、やめたい理由が何かを見るほうが役に立ちます。

不調が出てやめました。もう一生やらないほうがいいですか

いいえ。不調が収まり、生活が安定してから、短時間で、できれば指導者のもとで再開することはできます。ただし、医療にかかっている方は主治医に相談のうえで行ってください。

関連するページ