瞑想が「うまくできているか分からない」のは、正常です。できているかどうかを測る、分かりやすい手応えは、瞑想にはありません。
目安は一つだけです。雑念に気づいて、息に戻る。これが起きていれば、できています。
特別な感覚や無の境地は、正解の条件ではありません。
「できているか分からない」は、できていない証拠ではない
瞑想を始めた方から、もっとも多く聞く言葉の一つが、「ちゃんとできているのか分かりません」です。
座ってみた。息を数えてみた。けれど頭の中は騒がしく、途中で数が分からなくなり、足はしびれ、気がつけば仕事のことを考えている。10分たって目を開けても、何かが変わった感じはしない。「これで合っているのか」「私には向いていないのかもしれない」。
この感覚は、ほとんどの人が通ります。私も通りました。そして、この「分からない」は、できていない証拠ではありません。瞑想には、できたときに鳴るベルのようなものがないだけです。
なぜ分からないのか。多くの場合、「できている状態」について、実際とは違う像を持っているからです。無になる、頭が空っぽになる、深く沈み込む、光に包まれる。こうした像と比べれば、自分の瞑想はいつまでも「できていない」ことになります。ですから、まず像のほうを正します。
「正解の瞑想」についてのよくある誤解
次のような考えは、瞑想の正解ではありません。
- 雑念がなくなる状態が正解。
- 何も考えない「無」になれたら正解。
- 気持ちよさ、安らぎ、至福を感じたら正解。
- 光が見える、体が軽くなるなどの特別な感覚があれば正解。
- 終わった後、はっきりと変化を感じたら正解。
雑念は、なくなりません。人の頭は考えるようにできています。瞑想の熟練者でも、雑念は浮かびます。違いは、雑念が浮かばないことではなく、浮かんだことに早く気づき、戻れることです。
気持ちよさも、正解の条件ではありません。気持ちよい日もあれば、ひたすら退屈な日、落ち着かない日もあります。どの日も、同じ瞑想です。特別な感覚にいたっては、むしろ注意が必要です。光や浮遊感などは脳が及ぼす反応であり、追いかけるものではありません(瞑想の危険性 — 魔境・禅病とは何か)。
こうした誤解を手放すと、「できているか」の問いは、ずいぶん軽くなります。
できている目安 — 気づいて、戻る
では、何をもって「できている」と言えるのか。目安は一つです。
雑念に気づいて、息(あるいは決めた対象)に戻る。
これが瞑想の中身です。座って息を数える。三つ目あたりで、昨日の会話を思い出している。それに気づく。「考えていたな」と認めて、一から数え直す。また逸れる。気づく。戻る。10分のあいだに、これが何十回起きてもかまいません。何十回起きたなら、何十回「できて」います。
逸れている時間が長くても、問題ありません。5分間ずっと考え事をしていて、最後の10秒で「あ、考えていた」と気づいたなら、その10秒が瞑想です。残りの時間は無駄ではなく、気づきが起きるための地ならしです。
気づいて戻る、を繰り返すうちに、少しずつ、逸れてから気づくまでの時間が短くなります。これが、瞑想が「進む」ということの実際の中身です。劇的な変化ではなく、気づきが早くなること。それだけです。
自分で確かめる方法
それでも確かめたい方のために、いくつかの確かめ方を書きます。
終わった直後に一つだけ振り返る。 「今日、何回戻れたか」ではなく、「一度でも、逸れたことに気づいた瞬間があったか」を振り返ります。あったなら、できています。
姿勢と呼吸だけを確認する。 背骨が自然に立っていたか。吐く息に合わせて数えていたか。この二つが守られていれば、形は整っています(瞑想の正しい姿勢 — 椅子でも床でも、瞑想の呼吸法 — 数息観から始める)。形が整っていれば、中身は後からついてきます。
日常のなかで見る。 瞑想の手応えは、座っている間より、日常のなかに現れます。苛立ったときに、一瞬「苛立っているな」と気づけた。考えが堂々巡りしていることに、少し早く気づけた。こうした瞬間が増えていれば、瞑想は働いています。数週間、数か月の単位で見てください。
人に見てもらう。 自分では分からないことが、指導者や経験者が見れば分かることがあります。姿勢の癖、呼吸の浅さ、力の入り方。一度でも人に見てもらうと、「分からない」の多くは解けます。
「分からない」まま続ける。 これが、いちばん確かな方法かもしれません。できているかどうかの判断を保留して、ただ座る。判断そのものが、雑念の一種だからです。「できているかな」と考えていることに気づいて、息に戻る。それがまさに、できている状態です。
「分からない」が続くときに見直すこと
数か月続けても、まったく手応えがない、座ること自体が苦痛になっている、という場合は、やり方を見直す余地があります。
- 時間が長すぎないか。最初は10分、難しければ5分で十分です(瞑想は何分やればいいか)。
- 目標が高すぎないか。「集中する」ではなく「気づいて戻る」に目標を置き換えます。
- 眠くなっていないか。眠気が強いなら、目を開けて座ります(瞑想すると眠くなる原因と対処)。
- 体が痛くないか。痛みがあると、気づきは痛みに吸い取られます。椅子に変えてもかまいません。
- 効果を急いでいないか。瞑想は、効果を感じないことのほうが多い実践です(瞑想の効果を感じないのはなぜか)。
やり方を変えても苦痛が続く場合、瞑想が今のその人に合っていない、ということもあります。瞑想以外にも、心を整える方法はあります。歩くこと、写経、読経、掃除。動きのある実践のほうが合う人もいます(動く瞑想(写経・読経・掃除・作務))。
仏教から見た「できる・できない」
仏教の瞑想は、「できた・できない」を競うものではありませんでした。
止観(しかん)という言葉があります。止(し)は心を一点に止めること、観(かん)はものごとをありのままに見ること。瞑想の伝統では、この二つを、達成する目標ではなく、繰り返し行う営みとして扱ってきました。心が逸れ、戻す。逸れ、戻す。この繰り返しそのものが修行であって、逸れなくなった状態が合格、という発想はありません。
禅の伝統には、瞑想中の体験を「相手にするな」という教えがあります。良い体験も悪い体験も、できた感じもできない感じも、ただ通り過ぎさせる。「できているか」という問いさえ、通り過ぎさせる対象です。
密教の観法では、身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三密(さんみつ)を整えることが基本に置かれています。姿勢を正し、言葉を整え、心を一点に置く。この三つのうち、体と言葉は、できているかどうかが目に見えます。心は見えません。だから、見える二つを整えることで、見えない心を支える。「心がちゃんとできているか分からない」ときは、体と呼吸が整っているかを見ればよい、という考え方です。これは密教だけのものではなく、坐禅が姿勢と呼吸を重んじることにも、同じ構造があります。
康照から、ひとこと
私は、自分の瞑想が「できている」と思ったことが、あまりありません。
今でも、雑念は浮かびます。
数を忘れ、昨日のことを考え、気づいて戻る。
それを、今日も繰り返しています。
できているかどうかは、分からないままでいいのではないでしょうか。
分からないまま座り続けた人のほうが、長く続いている気がします。
「できた」と思った瞬間に、何かを掴もうとする心が動き始めます。むしろ、掴まないまま、ただ座っている時間のほうが、瞑想に近いのかもしれません。
分からなくて、いいと思っています。
よくある質問
瞑想中ずっと考え事をしていました。失敗ですか
失敗ではありません。考え事をしていたと、どこかで気づいたなら、その瞬間が瞑想です。次に座るとき、気づくまでの時間が少し短くなれば十分です。
無になれません。どうすれば無になれますか
無になる必要はありません。瞑想は、雑念をなくす練習ではなく、雑念に気づいて戻る練習です。「無になれない」と考えていることに気づいて、息に戻ってください。
瞑想の後に何も変わった感じがしません
多くの人がそうです。瞑想の変化は、座っている間ではなく、日常のなかに、数週間から数か月の単位で現れます。苛立ちや堂々巡りに少し早く気づけるようになっていれば、働いています。
正しい瞑想を教えてもらうには、人に見てもらうべきですか
一度は見てもらうことを勧めます。姿勢や呼吸の癖は、自分では分かりにくいからです。ただし、見てもらった後も、「できているか」は結局、気づいて戻ることで判断するしかありません。
気持ちよくなる日とならない日があります。どちらが正しいですか
どちらも正しい瞑想です。気持ちよさは正解の条件ではありません。退屈な日、落ち着かない日も、気づいて戻ることができていれば、同じ瞑想です。


