瞑想中に雑念が消えないのは、瞑想が失敗している印ではありません。心が動いているのが見えるようになっただけです。
雑念は、消そうとしないでください。気づいて、流して、また息に戻る。これを繰り返します。
消そうと力むほど、雑念は増えます。流すことが、唯一の扱い方です。
雑念が消えないのは普通のこと
瞑想を始めた方の多くが、最初にぶつかるのが雑念です。座った途端に、仕事のこと、家族のこと、さっき見たニュース、夕飯の献立、昔の失敗。次から次へと考えが浮かんで、息を数えるどころではない。「瞑想とは無になることではないのか」「私には向いていないのかもしれない」と感じる方も少なくありません。
まず知っておいていただきたいのは、雑念が出ること自体は、ごく普通で、避けられないということです。座る前も、心は同じように動いていました。ただ、忙しさに紛れて気づかなかっただけです。座って静かになったから、心の動きが見えるようになった。見えるようになったことは、瞑想が始まっている証拠であって、失敗の証拠ではありません。
仏教では、心が次々と対象を追いかけて落ち着かない様子を、古くから「心猿意馬(しんえんいば)」と表現してきました。猿のように騒ぎ、馬のように走り回る心。千年以上前の修行者も、同じことに悩んでいたということです。雑念と向き合うことは、瞑想の障害ではなく、瞑想そのものです。
消そうとすると、なぜ増えるのか
雑念に対して多くの方が最初にとる対処は、「消そうとする」ことです。考えるのをやめよう、頭を空っぽにしよう、と力を入れる。しかし、これはうまくいきません。
理由は二つあります。一つは、「消そう」という意図そのものが、新しい考えだからです。「考えるな」と自分に言い聞かせている間、心は「考えるな」という考えで埋まっています。雑念と戦っている限り、心は戦いの場であり続けます。
もう一つは、抑え込もうとした考えは、押し返す力を持つからです。「このことは考えないようにしよう」と決めると、かえってそのことが気になって仕方なくなる経験は、誰にでもあると思います。瞑想のなかでも同じことが起きます。
ですから、私は雑念を消そうとしないように伝えています。消すのではなく、流す。これが、道場で一貫して伝えている方針です。
「流す」とはどうすることか
「流す」とは、浮かんだ考えに気づいて、それを追いかけず、相手にもせず、通り過ぎさせることです。具体的には、次のようにします。
- 息を数えている最中に、考えが浮かびます。
- しばらく考えに乗ってしまい、気づいたら数を忘れています。
- 「ああ、考えていたな」と気づきます。
- その考えを良いとも悪いとも判断せず、そのままにします。
- 息を数える作業に戻ります。「ひとつ」から数え直します。
このとき、考えの内容を検討しないことが大事です。「この考えは重要だから後で考えよう」「この考えはくだらない」といった評価を始めると、それがまた新しい雑念になります。内容に関わらず、ただ「考えていた」と気づいて、戻る。
よく使われるたとえに、川岸に座って流れを眺める、というものがあります。川には葉や枝が流れてきますが、岸にいる人はそれを拾い上げず、流れていくのを見ているだけです。雑念も同じで、拾い上げなければ、自然と流れていきます。拾い上げるとは、その考えについて考え始めることです。
気づいて戻ることが、瞑想の中身
ここで、瞑想についての見方を一つ変えていただきたいと思います。
瞑想とは、「雑念のない状態を保つこと」ではありません。「雑念に気づいて、戻ること」です。心がそれたことに気づく瞬間、そしてまた息に戻る瞬間。この二つの瞬間こそが、瞑想で養われる働きの中身です。
ですから、10分の間に50回雑念が出て、50回戻ったとすれば、それは50回瞑想をしたということになります。雑念が一度も出なかった10分より、雑念に50回気づいて戻った10分のほうが、心の働きとしてはよく使われています。
「雑念が多い日は失敗の日」ではなく、「雑念が多い日は、気づいて戻る練習をたくさんできた日」です。この見方の転換は、瞑想を続けるうえで最も大事なことの一つだと思います。
雑念が特に強いとき
とはいえ、雑念が強すぎて、まったく息に戻れない日もあります。そういうときの対処をいくつか書きます。
- 数える数を小さくする。十まで数えるのが難しければ、五まで、三までにします。戻る先を近くするということです。
- 目を開ける。閉眼だと考えが広がりやすい方は、半眼(はんがん・目を半分開けて、1メートルほど先の床を見る)か開眼にします。視覚に少し注意が留まり、考えに飲まれにくくなります。
- 時間を短くする。雑念の嵐の中で30分耐えるより、10分で終えて翌日また座るほうが、続きます。
- 雑念に名前をつける。「仕事」「心配」「計画」と、浮かんだ考えに一言だけ札を貼ってから戻る方法です。考えの内容に入り込まず、種類だけを見て手放す助けになります。
- 体に戻る。息が難しければ、座面に触れているお尻、床に触れている足の裏など、体の感覚に注意を置きます。
どの方法も、雑念を「消す」ためのものではなく、「戻る先」を分かりやすくするための工夫です。
ただ、雑念というより、強い不安や恐怖、過去のつらい記憶が繰り返し押し寄せる場合は、少し別の扱いが必要です。瞑想で不安や恐怖が強くなるときに書きました。無理に座り続けないでください。
仏教から見た雑念
仏教では、雑念を「妄念(もうねん)」や「妄想(もうぞう)」と呼びます。ここで言う妄想は、現代語の「空想」とは違い、実体のないものを実体があるかのように思い込む心の働きを指します。
雑念を観察していると、気づくことがあります。どの考えも、浮かんでは消えていく。しばらく居座るように見えても、やがて別の考えに置き換わる。どれ一つとして、ずっと留まっているものはない。仏教が「無常(むじょう・すべては移り変わる)」と呼ぶものを、雑念は目の前で見せてくれます。
密教の観法でも、心が動くこと自体を否定はしません。真言宗では、身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三つを整える三密(さんみつ)という考え方がありますが、「意」を整えるとは、心を空っぽにすることではなく、心の向きを定めることです。雑念が出るたびに息へ戻るのは、心の向きを定め直す練習にほかなりません。
雑念は、心が生きている証拠です。生きている心を、ただ静かな方向に向け直す。それを何度でも繰り返す。密教が説く修行の反復は、雑念との付き合い方にそのまま重なります。
康照から、ひとこと
私は、雑念の多い日を「悪い瞑想」とは思っていません。
座って、考えが浮かんで、気づいて、戻る。
また浮かんで、気づいて、戻る。
それを10分やった。
それだけで、その日の瞑想は成り立っているのではないでしょうか。
雑念は、消すものではありません。むしろ、気づく練習の材料として、向こうから来てくれているのだと思っています。
消えないのなら、流してください。
流せなかったら、流せなかったことに気づいて、また戻ればよいと思います。
よくある質問
雑念が出ない状態になることはありますか
長く続けていると、雑念が静まる時間が増えることはあります。ただ、それを目標にすると、雑念が出るたびに落胆することになります。目標は「雑念がないこと」ではなく、「気づいて戻ること」に置いてください。
雑念の内容が大事なことだったら、どうすればいいですか
瞑想中は、内容を検討せず、流してください。本当に大事なことは、瞑想が終わってからも覚えています。瞑想の最中に考え始めると、それは瞑想ではなく考えごとの時間になります。
雑念ではなく、つらい記憶が繰り返し出てきます
雑念とは少し違う扱いが必要です。強い不安や恐怖、つらい記憶が繰り返し押し寄せる場合は、無理に座り続けず、目を開け、時間を短くしてください。詳しくは瞑想で不安や恐怖が強くなるときに書きました。
雑念に名前をつける方法は、仏教の方法ですか
浮かんだ考えに札を貼って手放す方法は、マインドフルネス系の指導でよく用いられます。仏教の伝統的な数息観とは別の工夫ですが、「内容に入り込まず手放す」という点で方向は同じです。使いやすければ使って構いません。


