死を見つめる瞑想の実践 — 死随念のやり方

効果・目的別

死随念(しずいねん。マラナサティ)は、自分の死を忘れずに念じることで、今日を怠らずに生きるための仏教の瞑想です。
特別な道具も信仰も要らず、椅子に座って10分あれば、誰でも取り組めます。
ただし、うつ状態や喪失の直後には向かないので、このページでは、手順とともに、避けるべき時期と注意点を必ず添えて述べます。

死随念とは何か

死随念は、パーリ語でマラナサティ(maraṇasati)と言います。マラナは「死」、サティは「忘れずに心に留めること、気づき」です。自分にもいつか死が来ること、それがいつ来るかは分からないことを、忘れずに心に置き続ける瞑想です。

仏教では、これを「随念(ずいねん)」という瞑想の一群に含めています。随念とは、ある対象を繰り返し思い起こす瞑想で、仏を念じる仏随念、戒を念じる戒随念などがあり、死随念はその一つです。

死随念の目的は、死を怖がることでも、死に慣れることでもありません。怠りからの目覚めです。「まだ時間がある」と思っているあいだ、人は大切なことを先延ばしにします。「この一息が最後かもしれない」と思って初めて、今日やるべきことがはっきりします。初期仏教の経典には、釈尊が弟子たちに「死を念じているか」と問い、「明日まで」「今日一日」と考えているうちはまだ怠っている、一息吸って吐くあいだに死を念じる者こそ正しく修している、と諭す場面が伝えられています。

死と瞑想の関係全体については 瞑想と死の受容 — 死を見つめることが生を取り戻す入口 で述べています。このページは、その実践編です。

出典 — 経典と注釈書はどう説いているか

死随念は、仏教の古い文献にはっきりと記されています。主なものを挙げます。

『増支部経典』(アングッタラ・ニカーヤ)には、死随念をそのまま題とする経が複数あり、上で触れた「死を念じているか」という問答もここにあります。死随念を熱心に修すると、怠りがなくなり、心が解脱に向かうと説かれています。

『大念処経』(長部経典)と『念処経』(中部経典)は、気づき(サティ)の瞑想の根本経典で、マインドフルネスの源流としても知られています。この中の「身随観」の節に、墓地に捨てられた遺体が時間とともに変化していく様子を観て、「この体もまた、同じ性質を持ち、同じようになり、それを免れない」と観る実践が説かれています。これが後に九相観(くそうかん)として日本にも伝わりました。

五世紀にブッダゴーサが著した注釈書『清浄道論』は、死随念の具体的な方法を最も詳しく説いています。そこでは、死を思い起こす八つの観点が挙げられています。死は処刑人のように必ず来ること、財や名声も死の前では崩れること、どんな偉人も死を免れなかったこと、この体を多くの生き物と分かち合っていること、命は呼吸や食事などの細い条件に支えられていること、死の時期は定まっていないこと、寿命は限られていること、一瞬一瞬が過ぎていること、です。

これらは、どれも「死は確実で、時期は不確実である」という一点に集まっています。死随念は、この一点を、頭の理解ではなく、心の習慣にするための実践です。

死随念のやり方 — 誰でもできる手順

ここでは、伝統の方法を土台に、現代の方が日常で取り組める形に整えた手順を述べます。所要時間は10分から15分です。

1. 座る

椅子でも床でも構いません。背筋を自然に伸ばし、手は膝か太ももの上に置きます。結跏趺坐(両足を組む座り方)である必要はありません。目は、閉じても、半眼でも構いません。姿勢については 瞑想の正しい姿勢 — 椅子でも床でも を参考にしてください。

2. 呼吸を整える

まず数息観(すそくかん。吐く息を一つ、二つと数える)で、3分ほど心を静めます。死随念は、心が落ち着いた状態で行うものです。騒がしい心のまま死を思うと、不安が増幅するだけになります。呼吸が整ってから、次に進みます。

3. 死は確実であることを、静かに置く

心の中で、言葉を一つ置きます。「私もいつか死ぬ」。これを、恐れを煽らず、事実として置きます。天気の話をするように、淡々と置きます。もし強い動揺が出たら、呼吸に戻り、落ち着いてから、もう一度置きます。

4. 時期は分からないことを、置く

次に、もう一つ置きます。「それがいつかは、分からない」。今日かもしれない、ずっと先かもしれない。分からない、という事実をそのまま眺めます。『清浄道論』が挙げる観点のうち、「命は呼吸という細い条件に支えられている」ことを、自分の呼吸を感じながら思い起こすのもよい方法です。いま吸った息を吐けなければ、それで終わる。そのことを、息を感じながら確かめます。

5. 問いを一つ、置く

心が静かなまま、問いを一つ置きます。「もし残りの時間が限られているとしたら、今日、何を大切にしたいか」。答えを探しに行かず、浮かんでくるものを眺めます。人の顔が浮かぶかもしれません。言いそびれていた言葉かもしれません。何も浮かばなければ、それで構いません。

6. 呼吸に戻り、終える

最後に、呼吸に戻ります。数息観を1分ほど行い、心を日常に戻してから、ゆっくり目を開けます。急に立ち上がらず、少し間を置いてから動きます。

7. 一つだけ、動く

できれば、瞑想のあとに、浮かんだことを一つだけ、実際に行ってください。電話を一本かける、言葉を一つ伝える、先延ばしにしていたことに手をつける。死随念は、座って終わりではなく、座ったあとの行動につながって初めて、生きた実践になります。

続け方 — 毎日の瞑想にどう組み込むか

死随念は、毎日長く行うものではありません。私がお勧めしたいのは、毎日の素朴な瞑想(数息観やサマタ)を土台にして、週に一度、あるいは心が整っている日に、その終わりの数分を死随念に充てる、という形です。

毎日の土台がないまま死随念だけを行うと、不安に飲まれやすくなります。逆に、土台があると、死随念は、日々の瞑想に深さを加える働きをします。呼吸を数えていて、ふと「この息もいつか終わる」と思い、それが怖さではなく、静かなありがたさに変わる。そういう瞬間が、続けていると訪れます。

また、座っていないときに、短く思い起こすだけでも、死随念は働きます。朝、目が覚めたとき、「今日が与えられた」と一瞬思う。夜、床に入るとき、「今日も終わった」と一瞬思う。『清浄道論』が「一瞬一瞬が過ぎている」ことを観点に挙げているように、死随念は本来、一日の中に散りばめて行うものでもあります。

避けるべき時期と注意点

死随念は、心に一定の余裕があるときに初めて、生を取り戻す方向に働きます。以下の場合は、行わないでください。

うつ状態にあるとき — 気分の落ち込みが続き、眠れない、食べられない、何をしても楽しくない、といった状態のときは、死を思う実践は、落ち込みを深める方向に働くことがあります。この時期は、死随念ではなく、呼吸を数える素朴な瞑想にとどめるか、瞑想そのものを休んで、心療内科などの専門家に相談してください。うつ状態と瞑想 — できること、医療に委ねること も参考にしてください。

大切な人を亡くした直後 — 喪失の悲しみが新しいうちは、死を見つめるよりも、まず自分の呼吸と体を整えることが先です。大切な人を亡くした後の瞑想 をご覧ください。

死について考えると、自分を傷つけたい気持ちが強まるとき — この場合は、瞑想ではなく、医療の領域です。すぐに専門家に相談してください。

強い不安や動揺が出たとき — 死随念の途中で、動悸、息苦しさ、涙が止まらないなどの反応が出たら、無理に続けず、呼吸に戻って終えてください。一度で深める必要はありません。瞑想で不安や恐怖が強くなるとき に対処をまとめています。

死随念は、追い詰めるためのものではなく、整えるためのものです。整う方向に働いていないと感じたら、それは、いまはその時期ではない、という合図です。

よくある誤解

「死随念をすると、生きる意欲がなくなる」 — 伝統の説き方も、実践者の実感も、その逆です。終わりがあると知ると、どうでもよいことに費やしていた時間が減り、本当に大切なことに力が向きます。

「死を怖がらなくなるのが目的」 — 恐怖をなくすことは目的ではありません。恐怖は、生きている者にとって自然なものです。恐怖の奥にある「生きたい」「大切にしたい」という願いを取り戻すのが、目的です。

「出家者のための特別な行」 — 九相観のように遺体を観る実践は出家者のものでしたが、「死は確実で、時期は不確実」と念じること自体は、誰でも、信仰の有無にかかわらず、取り組めます。

康照から、ひとこと

死随念は、暗い瞑想だと思われがちです。
でも、続けていると、むしろ明るくなる、と私は感じています。

「いつか終わる」と、毎日、静かに置く。
すると、今日が、少し違って見えてきます。
与えられた一日として、見えてきます。

私は、葬儀や法要の場で、多くのご家族と向き合ってきました。
そこでよく感じるのは、「もっと早く、ちゃんと向き合っておけばよかった」という静かな後悔です。
死随念は、その後悔を、少しでも減らすための、古くて素朴な方法ではないでしょうか。
難しいことは要りません。
座って、息を数えて、「私もいつか死ぬ」と、一度だけ置く。
それだけで、今日の使い方が、少し変わると思っています。

よくある質問

死随念は、毎日行ったほうがよいですか。

毎日行う必要はありません。毎日の素朴な瞑想を土台にして、週に一度、心が整っている日の終わりの数分を充てる、という形をお勧めします。一日の中で、朝と夜に一瞬思い起こすだけでも、十分に働きます。

死を思うと怖くなって、眠れなくなります。

怖さが眠りに影響するほど強いなら、いまは行わないでください。呼吸を数える瞑想だけにとどめ、心に余裕が戻ってから、短い時間で再開してください。それでも怖さが続く場合は、心療内科などの専門家に相談することをお勧めします。

九相観のように、遺体の写真や絵を見て行うべきですか。

一般の方には、お勧めしません。九相観は出家者が師のもとで修した行で、現代の生活の中で独学で行う性質のものではありません。「死は確実で、時期は不確実」と念じるだけで、死随念としては十分です。

棺桶瞑想とは、どう違いますか。

死随念は、頭の中で自分の死を念じる、仏教に古くから伝わる瞑想です。棺桶瞑想®は、その精神を土台に、実物の棺に入って体ごと死に近づく、私が考案した実践です。詳しくは 棺桶瞑想とは — 死を見つめて生を取り戻す をご覧ください。

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参考文献

  • 『増支部経典』(Aṅguttara Nikāya)死随念経(Maraṇassati Sutta)など、死随念に関する諸経
  • 『大念処経』(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta、長部経典22)および『念処経』(Satipaṭṭhāna Sutta、中部経典10)身随観の節
  • ブッダゴーサ『清浄道論』(Visuddhimagga)第8章 死随念の節