瞑想と自己肯定感 — 自分を高く評価しなくても、自分でいられる

効果・目的別

瞑想は、自己肯定感を「高める」方法ではありません。自分を評価し続けている内側の声に、気づく方法です。
その声に気づけると、声と自分の間に隙間ができます。評価が低いままでも、評価に飲み込まれずにいられる時間が増えます。
自分を責める声が強く、日常に支障が出ている場合は、瞑想で対処しようとせず、医療や専門家に相談してください。

自己肯定感とは何か、何が誤解されているか

自己肯定感という言葉は、広く使われるようになりましたが、使われ方にはばらつきがあります。おおまかに言えば、自分を価値ある存在として受け入れられる感覚、と説明されることが多いようです。

この言葉をめぐって、一つの誤解があります。「自己肯定感を高める」とは、自分を高く評価できるようになること、自分に自信を持てるようになること、自分を好きになること、だという理解です。この理解のもとでは、自己肯定感は、評価の高さで測られます。評価が高ければ肯定感も高く、低ければ低い。

しかし、評価で自分を支えようとすると、評価が揺らぐたびに自分も揺らぎます。うまくいったときは自分を肯定でき、失敗したときは肯定できない。人と比べて上なら安心し、下なら不安になる。評価に支えられた肯定感は、評価とともに上下し、安定しません。

人生後半になると、この揺らぎは、別の形で現れます。仕事の役割を終え、体が以前のようには動かず、社会的な評価の土台そのものが変わっていく。「私は、何者だったのか」「これから、何者でいられるのか」。評価で自分を支えてきた人ほど、この問いは重くなります。

瞑想が関わるのは、評価を高くすることではなく、評価そのものとの付き合い方です。

内側の声に気づく — 評価している自分

座って息を数えていると、雑念が浮かびます。その雑念を、少し注意して見てみると、かなりの部分が「評価」であることに気づきます。

「今日もうまく集中できない」「こんなことも続けられないのか」「あの人はもっとできているのに」「私はいつもこうだ」。瞑想の最中でさえ、内側の声は、自分を採点し続けています。この声は、瞑想のときだけ鳴っているのではありません。一日中、鳴っています。仕事で、家庭で、鏡の前で。あまりに常に鳴っているので、声だと気づかず、事実だと思い込んでいます。

瞑想は、この声を、声として聞く練習です。「こんなことも続けられないのか」という考えが浮かぶ。それに気づく。「評価していたな」と認めて、息に戻る。声を止めようとはしません。止めようとすると、止まらないことがまた採点の対象になるからです。ただ、気づいて、戻る。

これを続けていると、ある時点で、声と自分の間に、わずかな隙間ができます。「私はだめだ」が、事実ではなく、今浮かんでいる一つの考えとして見えてくる瞬間です。評価は変わっていません。低いままかもしれません。しかし、評価に飲み込まれて動く時間が、少し減ります。これが、瞑想が自己肯定感に対してできることです。

自分への慈悲 — 評価の代わりに置くもの

評価の声に気づいた後、その場所に何を置くか。瞑想の伝統が用意してきたのは、慈悲です。

慈悲の瞑想(メッタ)は、上座部の伝統に由来する方法で、自分や他者の幸せを願う言葉を心のなかで繰り返します。その最初の対象は、自分です。「私が安らかでありますように」。苦手な人や他者に向ける前に、まず自分に向ける。この順序には意味があります。自分に慈悲を向けられない人は、他者にも向けにくいからです(慈悲の瞑想(メッタ)とは)。

自分に慈悲を向けるのは、自分を甘やかすことではありません。評価の声が「お前はだめだ」と言うとき、その横に、「つらかったね」「よくやっている」という別の声を置くことです。採点ではなく、手当て。失敗した友人にかける言葉を、自分にもかける。それだけのことですが、評価の声しか知らない人にとっては、これがとても難しい。

心理学の研究でも、自分への慈悲(セルフ・コンパッション)という概念が、Neff によって2000年代に提案され、研究が重ねられています。自分を高く評価することとは異なる、自分への優しさ、人としての共通性の認識、マインドフルネスの三つの要素から成るとされています。自己肯定感を評価の高さで支えるのではなく、評価とは別の土台で自分を支える、という考え方は、仏教の慈悲の瞑想と重なる部分があります。

自己肯定感に向き合う瞑想のやり方

自分を責める声が強いときの座り方を、手順で書きます。基本の瞑想と同じです。

  1. 椅子か床に座り、背骨を自然に立てます(瞑想の正しい姿勢 — 椅子でも床でも)。
  2. 目を閉じるか、半分開けます。
  3. 吐く息に合わせて、一から十まで数えます。数息観(すそくかん・息を数える瞑想)です(瞑想の呼吸法 — 数息観から始める)。
  4. 自分を評価する考えが浮かんだら、消そうとせず、「評価していたな」と気づいて、息に戻ります。
  5. 「うまく瞑想できていない」という考えも、評価の一つです。同じように気づいて、戻ります。
  6. 終わりに、一度だけ、心のなかで「今日も座った」と言ってみます。採点ではなく、事実の確認として。
  7. 10分たったら、一度深く息をして、目を開けます。

自分を責める傾向の強い方は、瞑想の「できなさ」を、また自分を責める材料にしがちです。「10分も座れなかった」「雑念ばかりだった」。これを防ぐために、最初は5分で十分です。座れた日に座る、くらいの緩さで続けてください。瞑想ができているかどうかの判断については瞑想がうまくできているか分からないに書きました。

医療に相談する線

自分を責める声は、誰にでもあります。しかし、その声が、次のような状態になっているときは、瞑想で対処しようとせず、医療や専門家に相談してください。

  • 自分には価値がない、消えてしまいたい、という考えが続く。
  • 自責の念で、眠れない、食べられない。
  • 自分を責める声が一日中止まず、日常生活に支障が出ている。
  • 過去のつらい体験の記憶と結びついている。

こうした状態で一人で座り、内側を見つめることは、声を大きくする場合があります。瞑想は、ある程度の落ち着きがある状態で、医療と並行して使うものです。うつ状態と瞑想の関係についてはうつ状態と瞑想に、線を明確にして書きました。

仏教から見た「自分」 — 無我と、それでも生きる自分

仏教は、自己肯定感という言葉を知りませんでした。その代わり、「自分とは何か」を、二千年以上にわたって問うてきました。

仏教の見方の一つに、無我(むが)があります。固定した、変わらない「自分」という実体はない、という見方です。これは、「自分には価値がない」という意味ではありません。自分とは、体、感覚、記憶、考え、意志といった要素が、一瞬ごとに結びついて生じている流れであって、採点の対象になるような、固定した一個のものではない、という意味です。

この見方は、自己肯定感の問いを、少し違う場所に置き直します。「私は価値があるか、ないか」という問いは、固定した「私」があることを前提にしています。しかし、評価している「私」も、評価されている「私」も、一瞬ごとに変わる流れの一部です。評価の声が浮かび、消える。それも流れです。瞑想は、この流れを観察する実践であり、観察しているうちに、「私はだめだ」という考えが、固定した事実ではなく、流れのなかの一つの波として見えてくることがあります。

無我は、自分を否定する教えではありません。むしろ、固定した自分を守ろうとする緊張から、少し自由になる教えです。守るべき固定した自分がないなら、評価が下がっても、失うものは思っているより少ない。その分、目の前のことに、心を向けられる。

密教の見方も一つ添えておきます。密教には、即身成仏(そくしんじょうぶつ)という言葉があります。この身のままで仏になる、という意味で、自分の外に理想を置いてそこへ向かうのではなく、今のこの身心に、すでに整う力が備わっているという見方です。自己肯定感の文脈で言えば、「価値ある自分になる」のではなく、「今の自分に、すでに整う力がある」と見る。私は、この見方を「頑張るより、整える。」という言葉で伝えています。これは密教だけの考え方ではなく、仏教が人のなかに仏の性質(仏性・ぶっしょう)を見る見方の、一つの表れです。

康照から、ひとこと

私は、自己肯定感が高いほうではありません。
今でも、座っている最中に、「今日もだめだな」という声が聞こえます。
変わったのは、その声を、声として聞けるようになったことです。
声は、相変わらず鳴っています。
ただ、声に飲み込まれて一日を過ごす時間が、少し減りました。
自分を高く評価できるようになる必要は、ないのではないでしょうか。むしろ、評価の声が鳴っていても、息に戻れる。それで、十分ではないかと思っています。
人生後半は、評価の土台が変わっていく時期です。
土台が変わっても残るものを、瞑想は、静かに教えてくれる気がしています。

よくある質問

瞑想で自己肯定感は高まりますか

高めるというより、自分を評価する声に気づき、その声に飲み込まれにくくなる、という変化です。評価そのものが高くなるわけではありません。評価が低いままでも、評価と距離を置ける時間が増えます。

自分を責める考えばかり浮かんで、瞑想になりません

それでかまいません。責める考えが浮かんだと気づいて、息に戻ってください。「瞑想になっていない」という考えも、責める声の一つです。同じように気づいて、戻ります。最初は5分で十分です。

自分に慈悲を向けるのが、甘えのように感じます

多くの方がそう感じます。自分への慈悲は、甘やかすことではなく、失敗した友人にかける言葉を自分にもかけることです。甘えに感じるのは、評価の声しか知らなかったからかもしれません。言えなくても、「言えない自分に気づく」ことから始めてください。

無我と言われると、自分なんてどうでもいいと聞こえます

無我は、自分を否定する教えではありません。固定した変わらない自分はない、という見方で、「価値がない」という意味ではありません。固定した自分を守ろうとする緊張から自由になる、という方向の教えです。

自分に価値がないと感じて、消えたくなります

その状態では、瞑想を勧めません。まず、医療機関を受診してください。夜間や休日で受診が難しいときは、地域の相談窓口や、いのちの電話など、話を聴いてくれる窓口に連絡してください。瞑想は、落ち着きが戻ってからの話です。

関連するページ

参考文献

  • Neff, K. D. (2003). Self-compassion: An alternative conceptualization of a healthy attitude toward oneself. Self and Identity, 2(2), 85–101.
  • Goyal, M. et al. (2014). Meditation Programs for Psychological Stress and Well-being: A Systematic Review and Meta-analysis. JAMA Internal Medicine, 174(3), 357–368.