呼吸瞑想とは、出入りする息を対象にして心を留める瞑想です。仏教では安那般那念(あんなぱんなねん)と呼ばれ、釈尊自身が説いたもっとも基本の瞑想とされます。
数息観(すそくかん)は、その入口にあたる方法で、息を一から十まで数えることで心を呼吸に繋ぎ留めます。
私自身も、瞑想が初めての方に伝えるときは、まずこの数息観から入ります。
呼吸瞑想とは何か
呼吸は、生きている限り、いつでもそこにあります。道具も場所も要らず、寝ていても歩いていても続いています。しかも、呼吸は意識して変えることもできれば、意識せずに任せることもできる、心と体の境目にある働きです。だから古来、呼吸は瞑想のもっとも基本的な対象とされてきました。
呼吸瞑想には、大きく二つの方向があります。
一つは、呼吸を調える方向です。ゆっくり吐く、お腹で吸う、など、呼吸の仕方を変えて心身を落ち着かせます。ヨガのプラーナーヤーマや、各種の呼吸法がこれにあたります。
もう一つは、呼吸を観る方向です。呼吸を変えようとせず、自然に出入りする息に注意を向け続けます。仏教の呼吸瞑想は、基本的にこちらです。息を調えることは、観るための準備として用いることはあっても、目的ではありません。
本稿で扱う数息観は、「観る」方向の入口です。数えることで注意を呼吸に繋ぎ留めますが、呼吸そのものは自然に任せます。
安那般那念 — 釈尊が説いた呼吸の瞑想
初期経典の『安般念経(あんぱんねんきょう)』は、釈尊が弟子たちに呼吸の瞑想を説いた記録です。安那般那(アーナーパーナ)は「入息と出息」、念(サティ)は「気づき」を意味し、合わせて「呼吸への気づき」となります。
経典では、「長く息を吸っているときは、長く吸っていると知る。短く吸っているときは、短く吸っていると知る」という簡潔な言葉から始まり、呼吸への気づきが、体、感覚、心、そして法(ものごとの本当の姿)への気づきへと展開していく十六の段階が説かれます。呼吸を観ることが、そのまま仏教の瞑想の全体へつながっている、という構造です。
釈尊が悟りを開いたときの瞑想も、この呼吸への気づきだったと伝えられます。呼吸瞑想は、数ある瞑想の一つというより、仏教の瞑想の原点だと言えます。
数息観とは何か
数息観は、息を数える瞑想です。中国に仏教が伝わった初期に訳された『安般守意経(あんぱんしゅいきょう)』にすでに説かれており、禅宗でも天台宗でも、瞑想の入口として長く用いられてきました。
数え方には、いくつかの流儀があります。
- 吐く息を数える:吐くときに「ひとーつ」、次に吐くときに「ふたーつ」と、吐く息だけを数えます。もっとも広く行われている方法で、私もこの形で伝えています。
- 吸う息を数える:吸うときに数えます。眠気が強いときに用いられることがあります。
- 出入りを一組として数える:吸って吐いてで「一」と数えます。
いずれも、十まで数えたら一に戻ります。十を超えて数え続けると、数えること自体が機械的になり、注意が離れていきやすいからです。途中で数が分からなくなったら、一に戻ります。
なぜ数えるのかというと、呼吸は捉えどころがなく、ただ「息を感じよう」と思っても、すぐに注意が逸れてしまうからです。数字という手がかりを添えることで、注意が呼吸に留まりやすくなります。数は、呼吸という柱に心を繋ぐ紐のようなものです。
数息観の基本のやり方
- 椅子でも床でもよいので、背筋を伸ばして坐ります。結跏趺坐でも半跏坐でも、椅子でもかまいません。
- 目は閉じるか、半眼にします。眠気が強いときは少し開けておきます。
- 二、三度、深く息を吐いて、体の力を抜きます。その後は呼吸を自然に任せ、操作しません。
- 息を吐くときに、心の中で「ひとーつ」と数えます。息の長さに合わせて、ゆっくり数えます。
- 次の吐く息で「ふたーつ」。十まで数えたら、一に戻ります。
- 数が分からなくなったり、考えごとに引き込まれたりしたことに気づいたら、責めずに一から数え直します。この「気づいて戻る」ことが練習の中心です。
- 10分を目安に続け、終わるときは数えるのをやめ、ゆっくり目を開けます。
呼吸を深くしよう、長くしようと操作する必要はありません。浅ければ浅いまま、速ければ速いままの息を数えます。数えているうちに、息は自然にゆっくりになっていきます。姿勢や呼吸の細かな点は 瞑想の正しい姿勢 — 椅子でも床でも と 瞑想の呼吸法 — 数息観から始める をご覧ください。
数息観から先へ — 随息観と六妙門
数息観は入口であり、その先があります。
数が途切れずに続くようになったら、数えるのをやめ、息の出入りをただ追います。これを随息観(ずいそくかん)と言います。鼻から入り、喉を通り、胸やお腹を満たし、また戻っていく息の道筋に、注意を寄り添わせます。
天台宗の智顗(ちぎ)は、『六妙法門』という書物で、呼吸の瞑想を六つの段階として整理しました。
- 数(しゅ):息を数える
- 随(ずい):息を追う
- 止(し):息に留まり、心が静まる
- 観(かん):静まった心で、息と心と体を観察する
- 還(げん):観ている心そのものに立ち返る
- 浄(じょう):すべてを手放し、澄みきった心に安らう
これを六妙門(ろくみょうもん)と呼びます。呼吸という一つの対象が、数えることから始まって、止と観を経て、仏教の瞑想の全体を貫いている様子が、この六段階によく表れています。
禅宗でも、数息観から随息観へ、そして対象を置かずにただ坐る只管打坐へと進む順序が一般に説かれます。流派は違っても、呼吸から入って呼吸を手放していく道筋は共通しています。
仏教から見た呼吸瞑想の位置づけ
呼吸瞑想は、仏教のどの系統にも共通する土台です。上座部ではヴィパッサナーの前段として、禅宗では坐禅の入口として、天台では止観の骨格として用いられます。
密教の瞑想も、この土台に立っています。月輪観や阿字観でも、観想に入る前に呼吸を調え、数息観などで心を静めることが行われます。密教ではさらに、呼吸とともに「阿」の音を意識する方法や、吐く息と吸う息に仏の働きを観ずる方法もありますが、それらも、呼吸に心を留めるという基本の上に乗っているものです。
現代のマインドフルネス瞑想の基本練習も、呼吸に注意を向け、逸れたら戻す、というものです。名前や文脈は違っても、人類が見いだした「心を静める方法」の中心に、呼吸があり続けている、ということだと思います。
よくある誤解
「数息観は初心者用で、早く卒業すべきである」 — 数息観は入口ですが、浅い瞑想ではありません。六妙門が示すように、数えることの中に止も観もすでに含まれています。数えることに飽きたから次へ、ではなく、数が途切れず続くようになってから次へ、が目安です。
「呼吸は深く、ゆっくりしなければならない」 — 数息観では呼吸を操作しません。浅い息は浅いまま数えます。
「十まで数えられないのは才能がない証拠である」 — 十まで続かないのが普通です。気づいて一に戻ることが練習であり、十まで数えることは目的ではありません。
「腹式呼吸でなければ効果がない」 — 腹式呼吸は坐っていれば自然に近づいていきます。意識して作る必要はありません。
康照から、ひとこと
私の毎日の瞑想も、いつも数息観から始まります。
「ひとーつ、ふたーつ」と数えて、気づけば数を忘れていて、また一から。
何年続けても、十まで数えられない日があります。
でも、それでよいのだと思っています。
数えることは、集中の競争ではなく、むしろ、何度でもやり直せることを確かめる作業ではないでしょうか。
人生の後半に、「もう一度、一から」と思える練習が、息を数えることの中にある。
そう感じながら、今日も数えています。
よくある質問
数息観は何分くらい行えばよいですか
初めは10分で十分です。続けられるようになったら、少しずつ延ばします。瞑想は何分やればいいか をご覧ください。
数えていると、数えることばかりに気を取られます
初めはそれでかまいません。数えることに注意が向いているなら、少なくとも雑念には流されていません。慣れると、数と息が重なって感じられるようになります。
数息観と随息観、どちらを行えばよいですか
数が途切れず続くようになるまでは数息観、続くようになったら随息観、が目安です。迷ったら数息観に戻ってください。
鼻で呼吸しなければいけませんか
鼻が通っていれば鼻が自然ですが、鼻づまりのときは口で呼吸してかまいません。息の出入りを感じられれば、場所は問いません。
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参考文献
- 『安般念経』(Ānāpānasati Sutta、中部経典第118経)
- 安世高訳『仏説大安般守意経』
- 智顗『六妙法門』


