サマタ瞑想とは、呼吸や一つの対象に心を留め、心の散らばりを静めていく瞑想です。
漢訳では「止(し)」と呼ばれ、ものごとをありのままに観る「ヴィパッサナー(観)」と対をなす、仏教のもっとも基本的な瞑想の一つです。
数息観をはじめ、多くの瞑想法の土台になっており、私自身の日々の実践もこの止の瞑想が中心です。
サマタの意味
サマタ(samatha)はパーリ語で、「静まること」「穏やかであること」を意味します。サンスクリット語ではシャマタ(śamatha)といい、漢訳仏典では「止」と訳されました。日本の仏教で「止観(しかん)」という場合の「止」がこれにあたります。
何を止めるのかというと、心があちこちへ動き回ることです。私たちの心は、放っておくと、過去の後悔へ、未来の心配へ、目の前の音や匂いへと、絶えず飛び移ります。サマタは、その心を一つの対象に繋ぎ留め、動き回る力が自然に弱まるのを待つ瞑想です。
対象は、呼吸、体の一点、心に思い描いた像、短い言葉など、いろいろあります。大切なのは、対象を変えずに繰り返し戻ることです。心が逸れたことに気づいて、また対象へ戻す。その往復そのものが、サマタの実践です。
ヴィパッサナー(観)との関係
仏教の瞑想は、大きくサマタ(止)とヴィパッサナー(観)に分けられます。
サマタ(止)は、心を一つに集め、静めます。育つのは集中と安定です。
ヴィパッサナー(観)は、静まった心で、起きていることを観察し、無常・苦・無我という、ものごとの本当の姿を見抜きます。
経典では、止と観は鳥の両翼のように、どちらも欠かせないものとされます。心が騒がしいままでは正確に観ることができず、観の眼差しがなければ、止はただの心地よさに留まってしまうからです。伝統的には、まず止で心を落ち着かせ、それから観に進む順序が説かれますが、両者を行き来しながら深めていく実践も多く見られます。
ヴィパッサナーについては ヴィパッサナー瞑想とは、止と観の関係は 止観とは で詳しく扱います。
サマタの対象 — 何に心を留めるか
上座部仏教の代表的な注釈書『清浄道論(しょうじょうどうろん)』は、サマタの対象として四十種類の「業処(ごっしょ。瞑想の対象、仕事場の意)」を挙げています。すべてを覚える必要はありませんが、大きく分けると次のようになります。
- 呼吸:出入りする息を対象にします。数息観(すそくかん)は息を数える方法、随息観(ずいそくかん)は数えずに息を追う方法です。もっとも広く用いられる対象です。
- 色や形:円い色の板(カシナ)など、目で見た像を心に写し取り、それを対象にします。密教の月輪観や阿字観も、形を心に描くという点では、この系統に連なります。
- 仏や法の徳を想う:仏の徳、教えの徳を心に念じます。念仏も、心を一つに留めるという面ではサマタの性格を持ちます。
- 慈悲の心:生きとし生けるものの幸せを願う慈悲の瞑想(メッタ)も、心を一つの思いに留めるという意味でサマタに数えられます。
- 身体の観察:体の部分を順に観ていく方法で、心を静めつつ、体への執着をほどきます。
どの対象を選ぶかは、人によって向き不向きがあります。初めての方には、いつでもそこにある呼吸がもっとも無理がありません。
基本のやり方 — 数息観を例に
サマタの入口として、数息観を手順で示します。私も、瞑想が初めての方に伝えるときは、この数息観から入ります。
- 椅子でも床でもよいので、背筋を伸ばして坐ります。結跏趺坐(けっかふざ)でも半跏坐(はんかざ)でも、椅子でもかまいません。
- 目は閉じるか、軽く半眼にします。眠気が強い日は、少し開けておきます。
- 息を吐くときに「ひとーつ」、次に吐くときに「ふたーつ」と、心の中で数えます。十まで数えたら、一に戻ります。
- 途中で数が分からなくなったり、考えごとに引き込まれたりしたら、それに気づいて、一から数え直します。失敗ではありません。
- 10分を目安に続け、終わるときは数えるのをやめ、ゆっくり目を開けます。
数えること自体が目的ではありません。数が途切れずに続くようになったら、数えるのをやめて息を感じるだけの随息観へ、やがては息にただ寄り添う段階へと、対象への留め方が細やかになっていきます。詳しい手順は 呼吸瞑想・数息観とは と 瞑想の呼吸法 — 数息観から始める をご覧ください。
サマタが深まるとどうなるか — 禅定について
サマタが深まった状態を、仏教では禅定(ぜんじょう)あるいは定(じょう)と呼びます。サンスクリット語のディヤーナ(dhyāna)、サマーディ(samādhi)の訳語です。
経典では、禅定の深まりを段階として説明します。初めのうちは、対象を捉えようとする働き(尋)と、対象を細かく吟味する働き(伺)が必要で、心が留まると喜びと安らぎが生じます。さらに深まると、それらの働きさえ静まり、心が一点に澄みきった状態(一境性)が残ると説かれます。これを四段階に分けたものが「四禅(しぜん)」です。
こう書くと特別な体験のように聞こえますが、日常の言葉で言えば、「頑張って集中している」状態から、「集中しようとしなくても心が留まっている」状態へ移っていく、ということです。初めは力が要りますが、深まるほど力は要らなくなります。
ただし、深い禅定を目標にして追いかけると、かえって心が騒がしくなります。禅定は追うものではなく、心が静まった結果として訪れるものです。禅定については 禅定とは で別に扱います。
仏教から見たサマタの位置づけ
サマタは、仏教のどの系統にも共通する土台です。上座部ではヴィパッサナーの前段として、禅宗では数息観から只管打坐へ進む入口として、密教では観想の前提として、それぞれ用いられています。
密教の瞑想も、この土台の上に立っています。月輪観や阿字観は、月輪や阿字という一つの対象に心を留める点で、まぎれもなくサマタの瞑想です。同時に、その対象が表す意味を観ずるという、観の要素を併せ持ちます。密教が特別なのではなく、仏教の瞑想はどれも、止と観を何らかの形で組み合わせている、ということです。
現代のマインドフルネスは、どちらかといえば観の側に重心を置いた再構成ですが、「呼吸に注意を戻す」という練習は、まさにサマタの基本動作です。流派の名前は違っても、心を一つに留めて静める、という働きは共通しています。
よくある誤解
「サマタは初心者向けで、ヴィパッサナーは上級者向けである」 — 順序として止から観へ進むことは多いですが、止が浅く観が深い、という区分ではありません。深い止は、それ自体が深い実践です。
「雑念が出るのは集中できていない証拠である」 — 雑念が出ることと、雑念に気づいて戻ることは、別のことです。気づいて戻る回数が多い日は、むしろよく練習できた日です。雑念については 瞑想中に雑念が消えないとき をご覧ください。
「何も感じない状態が目標である」 — サマタは感覚を消す瞑想ではありません。心が静まるほど、むしろ呼吸や体の感覚は細やかに感じられるようになります。
「集中しようと力を入れれば深まる」 — 力を入れるほど心は硬くなります。対象に優しく戻し続けることが、結果として集中を育てます。
康照から、ひとこと
私の毎日の瞑想は、短い日は10分、長い日は60分ほどですが、そのほとんどは、この止の瞑想です。
華やかな体験があるわけではありません。
ただ息を数え、逸れたら戻す。それを繰り返すだけです。
それでも、その繰り返しの中で、「何かをしなければ」という焦りが、少しずつほどけていくのを感じます。
人生の後半は、新しく積み上げるより、散らばったものを一つに戻す時間なのではないでしょうか。
サマタは、そのための、地味で、確かな道だと思っています。
よくある質問
サマタ瞑想は宗教的な信仰がなくてもできますか
できます。呼吸に心を留めて戻す、という動作そのものには信仰は要りません。仏教はそれを体系化して伝えてきただけです。信仰との関係は 瞑想は宗教か — 信仰がなくてもできるか をご覧ください。
一日何分くらい行えばよいですか
初めは10分で十分です。長さより、毎日続くことのほうが大切です。時間の目安は 瞑想は何分やればいいか をご覧ください。
サマタ瞑想中に眠くなります
心が静まると眠気が出るのは自然なことです。目を開けて行うか、朝に時間を移してみてください。詳しくは 瞑想すると眠くなる原因と対処 をご覧ください。
サマタとマインドフルネスは何が違いますか
マインドフルネスは「気づき」に重心を置き、サマタは「留める」ことに重心を置きます。ただし両者は重なる部分が大きく、マインドフルネスの基本練習(呼吸に注意を戻す)はサマタそのものです。瞑想とマインドフルネスの違い をご覧ください。
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参考文献
- ブッダゴーサ『清浄道論』(Visuddhimagga)
- 『安般念経』(Ānāpānasati Sutta、中部経典第118経)


