仏教の瞑想 — 止観・禅・密教の違いと共通点を解説

瞑想の基本

仏教の瞑想は、心を一つに留める「止(サマタ)」と、ものごとをありのままに観る「観(ヴィパッサナー)」の二つを柱とし、戒・定・慧という修行の全体の中に位置づけられています。
上座部のヴィパッサナー、天台の止観、禅宗の坐禅、浄土の念仏、密教の観想は、入口も重視する点も異なりますが、いずれも止と観を含み、「苦しみの根である無明を見抜く」という同じ目的に向かっています。
このページでは、その全体像と各宗派の違い・共通点を、特定の宗派に立たず、どの流派も貶めることなく整理します。

仏教の瞑想とは何か — 修行全体の中の位置

仏教の瞑想を理解するには、まず瞑想だけを取り出さず、修行の全体の中でどこに位置するのかを見るのが近道です。

仏教では、修行の全体を三つに分けて説明します。戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学(さんがく)です。戒は、殺さない、盗まない、嘘をつかないといった、生活の土台を整えること。定は、心を一つに留めて静めること。慧は、静まった心で、ものごとをありのままに見抜く智慧です。この三つは順序であると同時に、互いを支え合う関係にあります。生活が乱れていれば心は静まらず、心が静まらなければ見抜くことはできず、見抜けなければ生活は整いません。

一般に「仏教の瞑想」と呼ばれるものは、この三学のうち主に「定」と「慧」にあたります。つまり仏教の瞑想は、心を落ち着かせて気持ちよくなるための技術ではなく、苦しみの原因を見抜いて、そこから自由になるための道の一部なのです。この点は、瞑想を健康法やストレス対策として学ぶ場合と、仏教の側から学ぶ場合の、いちばん大きな違いです。どちらが正しいということではなく、目指している場所が違うのです。

釈尊(しゃくそん。仏教の開祖、ゴータマ・ブッダ)は、菩提樹の下で瞑想して悟りを開いたと伝えられています。その瞑想の内容は、経典によれば、呼吸に意識を置いて心を静め、そこから縁起(えんぎ。すべてのものは原因と条件によって生じるという見方)を観じていくものでした。ここに、すでに「止」と「観」の二つの柱が揃っています。

止(サマタ)と観(ヴィパッサナー) — 仏教の瞑想の二本柱

仏教のあらゆる瞑想は、止と観の二つに分けて理解できます。

止(し)は、サンスクリット語でシャマタ、パーリ語でサマタといい、心を一つの対象に留めて静めることです。対象は、呼吸でも、色の円盤でも、仏の姿でも、文字でも構いません。心が対象から離れたら戻し、離れたら戻す。この反復によって、心のざわめきが収まり、澄んだ水面のような状態になります。前のページ 瞑想のやり方 完全ガイド で述べた数息観は、止の最も基本的な方法です。

観(かん)は、ヴィパッサナーといい、静まった心で、起きている現象をありのままに観ることです。呼吸が入り、出ていく。感覚が生じ、消える。思いが浮かび、去る。そうした一つ一つを、良い悪いの判断を加えず、「生じて滅するもの」として観ていきます。観によって見抜かれるのは、仏教が三法印(さんぼういん)と呼ぶ三つの真理、すなわち、すべては変化する(無常)、すべては思い通りにならない(苦)、変わらない「私」というものはない(無我)です。

止と観は、どちらが上ということはありません。止だけでは、心は静まっても、静まった状態に執着してしまいます。観だけでは、心がざわついたままでは観る力が足りません。古い経典は、止と観を「二頭立ての馬車」や「鳥の両翼」にたとえています。多くの流派は、止から入って観に進む順序を取りますが、観を重視して止を最小限にする流派もあれば、止を深く極める流派もあります。この重心の置き方が、宗派ごとの瞑想の違いを生んでいます。

禅定の階梯 — 心が静まる深さの段階

止を深めていくと、心の静まりには段階があることが分かってきます。仏教はこれを禅定(ぜんじょう)の階梯として整理しました。禅定とは、心が一つに定まった状態のことで、サンスクリット語のディヤーナを音写した「禅那」に「定」を添えた言葉です。

伝統的な整理では、禅定は大きく色界の四禅(しぜん)と無色界の四定に分けられ、合わせて八つの段階とされます。概略だけを述べます。

  • 初禅:雑念から離れ、対象に心が向かい続ける段階。まだ考える働き(尋・伺)が残っているが、離れたことによる喜びと安らぎがある
  • 第二禅:考える働きが止み、集中そのものから喜びと安らぎが生じる
  • 第三禅:喜びの高ぶりが収まり、静かな安らぎだけが残る
  • 第四禅:安らぎも超えて、苦でも楽でもない、澄みきった平静(捨)と一つの心(一境性)だけがある

この先に、空間の無限、意識の無限、無所有、非想非非想という無色界の四つの定が続くとされますが、日常の実践で意識する必要はありません。大切なのは、「集中には深さの段階があり、喜びや高揚は途中の段階であって、最終ではない」ということです。瞑想中に気持ちよさや高揚感が出てきたときに、それを最終目的と取り違えないための地図として、禅定の階梯は役に立ちます。

また、仏教の伝統では、第四禅の澄んだ心に立ったところで観に進むのが、最も確かな道とされています。深い禅定そのものは、仏教以前のインドの行者たちも到達していました。釈尊が加えたのは、その静まった心で縁起と無常を観じる「観」の部分です。禅定の詳細は 禅定とは で扱います。

上座部仏教の瞑想 — ヴィパッサナーを中心に

ここからは、各宗派・各系統の瞑想を順に見ていきます。最初は上座部(じょうざぶ)仏教です。スリランカ、ミャンマー、タイなど東南アジアに伝わる仏教で、パーリ語の経典を根拠とし、釈尊の時代の修行の形を比較的よく保っているとされます。

上座部の瞑想の中心は、ヴィパッサナー(観)です。もちろん止の瞑想(サマタ)も体系的に伝わっていますが、20世紀以降、ミャンマーを中心に、在家の人にもできる形でヴィパッサナーを教える運動が広がり、それが世界中に伝わりました。

代表的な方法は、呼吸に伴う腹部の膨らみ・縮みを観察し続ける方法や、体のあらゆる感覚を順に観察していく方法です。感覚や思いが起きるたびに、それに「痛み」「考え」などと短く名前をつけて気づき、追いかけずに手放します。この「気づいて名前をつける」作業を細かくくり返すことで、すべてが生じては消えていくこと(無常)を、頭ではなく体験として見抜いていきます。

上座部の瞑想の長所は、方法が明確で、段階が整理されており、宗教的な儀礼をほとんど伴わずに取り組めることです。現代のマインドフルネスは、この上座部のヴィパッサナーを土台として、宗教色を抜いて医療や教育の場に持ち込んだものです。ヴィパッサナー瞑想とは と マインドフルネス瞑想とは — 仏教との関係 で詳しく述べます。

天台の瞑想 — 止観という体系

中国で成立し日本にも伝わった天台宗は、仏教の瞑想を「止観(しかん)」という言葉で体系化しました。止と観を一つの言葉にまとめたこと自体が、天台の立場をよく表しています。止と観は分けられない一つの実践だ、という立場です。

天台の祖とされる智顗(ちぎ)は、『摩訶止観(まかしかん)』や『天台小止観』などの書物で、瞑想の準備(場所、食事、睡眠、姿勢、呼吸の整え方)から、雑念や眠気や病への対処、魔境の見分け方、観の深め方まで、きわめて実際的に説いています。前のページで述べた「体を揺らして中心に止める」「舌を上あごにつける」といった細かな作法も、天台の止観の書に由来するものが多くあります。瞑想の実践的な手引きとして、千年以上読み継がれてきました。

天台の止観には、段階を踏んで進む「漸次止観」、状況に応じて方法を変える「不定止観」、そしてあらゆる現象をそのまま真理の現れとして観る「円頓止観」の三種があるとされます。円頓止観は、一つ一つの現象の中に全体の真理を見る、という天台独自の世界観(一念三千)に立つ、きわめて高度な観です。

日本では、比叡山を中心に、止観とともに念仏や密教も取り入れた総合的な修行の体系が作られました。鎌倉時代に新しい宗派を開いた祖師たちの多くが比叡山で学んでいることからも分かるとおり、天台の止観は、日本仏教の瞑想の共通の土台になっています。止観とは で詳しく述べます。

禅宗の瞑想 — 坐禅・只管打坐・公案

禅宗は、インドから中国に渡った達磨(だるま)を祖とし、坐禅そのものを修行の中心に据えた宗派です。「禅」という宗派名が禅定の「禅」であることからも、瞑想との結びつきの深さが分かります。日本には主に臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つが伝わっています。

禅宗の瞑想は坐禅(ざぜん)と呼ばれ、結跏趺坐または半跏坐で、半眼で壁または前方を見て座ります。呼吸は数息観から入ることが多く、ここまでは他の宗派と共通です。禅宗の特徴は、その先にあります。

曹洞宗では、只管打坐(しかんたざ)を説きます。「ただひたすら座る」という意味で、悟りを得るための手段として座るのではなく、座っていることそのものが悟りの現れであるという立場です。何かを観想することも、数を数え続けることもせず、浮かぶものをそのままにして、ただ座ります。道元は『正法眼蔵』で、修行と悟りは一つであること(修証一等)を説きました。

臨済宗では、公案(こうあん)を用います。公案とは、「両手を打てば音がする、では片手の音は何か」のような、論理では答えられない問いです。師から与えられた公案を坐禅の中で抱き続け、理屈で考える心が行き詰まったところで、直接に見抜くことを目指します。公案は師との問答(参禅)の中で進められるため、師と弟子の関係が特に重視されます。

禅宗の瞑想の長所は、きわめて簡潔で、道具も観想の対象も要らず、座るという行為そのものに全体が込められていることです。また、掃除や食事、作務(さむ。労働)も修行とされ、座っていない時間も坐禅の延長として扱われます。この点は、あとで述べる「動く瞑想」につながります。坐禅と瞑想の違い で詳しく述べます。

浄土の瞑想 — 念仏も観想である

浄土宗や浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」と称える念仏を中心とする宗派です。一見すると瞑想とは縁遠いように思われるかもしれませんが、歴史をたどると、念仏はもともと観想の瞑想として始まりました。

念仏の「念」は、本来「心に念じる」という意味で、阿弥陀仏の姿やその国土(浄土)を心に詳しく思い描く観想が、古い形の念仏です。『観無量寿経』には、沈む夕日を見つめることから始めて、浄土の水、地、樹、楼閣、そして阿弥陀仏の姿へと、順に観想していく十六の段階が説かれています。これは、止と観の両方を含む、きわめて精緻な瞑想法です。

その後、中国の善導、日本の法然を経て、声に出して名を称える「称名念仏」が中心になりました。法然は、観想は難しく、誰にでもできるのは称名であると説き、称名を選び取りました。けれども、称名念仏もまた、心を一つの名に留めるという意味では、止の瞑想の性格を持っています。「南無阿弥陀仏」とくり返し称えるとき、心は他の思いから離れ、その名に集まります。これは、呼吸を数える数息観や、真言を唱える密教の実践と、構造の上では同じです。

浄土の瞑想の長所は、自分の力で心を静めようとする緊張から離れ、仏の側に委ねる姿勢を取ることです。頑張って集中しようとして、かえって力んでしまう人にとって、「委ねる」という入口は大きな助けになります。真言宗にも、阿弥陀仏を本尊とする観法や、光明真言を唱える実践があり、浄土と密教は歴史的にも深く交わっています。

密教の瞑想 — 三密・阿字観・月輪観

最後に、真言密教の瞑想です。詳しくは次のページ 密教の瞑想 — 阿字観を中心に に譲り、ここでは他の宗派との比較に必要な範囲だけを述べます。

密教の瞑想の根本は、三密(さんみつ)です。体(身密)、言葉(口密)、心(意密)の三つを同時に働かせます。具体的には、手に印(いん。手指で結ぶ形)を結び、口に真言(しんごん。仏の言葉とされる短い句)を唱え、心に仏や文字や月を観想します。他の宗派の瞑想の多くが、体を静かに保ち、言葉を止め、心だけを働かせるのに対し、密教は三つすべてを積極的に使います。ここが最大の違いです。

代表的な瞑想が、月輪観(がちりんかん)と阿字観(あじかん)です。月輪観は、満月の輪を心に観じ、自分の心が本来、月のように清らかで円満であることを体験する瞑想です。阿字観は、梵字(ぼんじ。古代インドの文字)の「阿」の字を月輪と蓮華の上に観じ、すべてのものが本来生じたものでも滅するものでもないこと(本不生、ほんぷしょう)を観じる瞑想です。どちらも、止(月や文字に心を留める)と観(心の本来の姿を観じる)を含んでいます。

密教の瞑想が目指すのは、即身成仏(そくしんじょうぶつ)です。この身のまま、この生涯のうちに、仏の境地に至ることです。他の宗派が、長い時間をかけて段階的に進むことを前提とするのに対し、密教は「私たちは本来すでに仏である。それを観想によって思い出す」という立場を取ります。曼荼羅(まんだら)は、その本来の姿を図に表したものであり、観想の地図でもあります。

密教の瞑想の長所は、体と言葉と心を総動員するため、心だけで静まろうとして行き詰まる人にも入口があること、そして、観想の対象が具体的で、心の本来の姿を肯定的に体験できることです。ただし、阿字観や月輪観は、本来、師から伝授を受けて学ぶものです。そのため、次第の細部は公開されておらず、このサイトでも書きません。

五つの系統の違いと共通点 — 一覧

ここまで述べた五つの系統を、比較のために並べます。

系統 中心となる瞑想 重心 体・言葉の扱い 師との関係
上座部 ヴィパッサナー(観) 観を重視、止は土台 体は静止、言葉は心の中で短く名づける 指導者のもとで集中合宿が多い
天台 止観 止と観を一体として段階的に 作法が細かく整えられている 師僧(しそう)のもとで学ぶ
禅宗 坐禅(只管打坐・公案) 座ることそのものに全体を込める 体は半眼で静止、言葉は用いない(公案は例外) 師との問答を重視(特に臨済)
浄土 念仏(観想・称名) 心を仏の名に留める、委ねる 声に出して称える 必ずしも師を要しない
密教 三密・阿字観・月輪観 本来仏である自分を観想で思い出す 印・真言・観想を同時に用いる 伝授(師資相承)が必須

違いは、入口と重心にあります。共通点は、次の四つです。

第一に、どの系統も、心を一つに留める「止」の要素を持っています。呼吸であれ、名であれ、月であれ、心を留める対象があります。

第二に、どの系統も、最終的には「観」を含みます。ただ静まるのではなく、静まった心でものごとの本来の姿を見抜くことを目指します。

第三に、どの系統も、瞑想を単独の技術としてではなく、戒・定・慧の三学の中に置いています。生活のあり方と瞑想は切り離されていません。

第四に、どの系統も、目指す先は「苦しみの根である無明(むみょう。ものごとをありのままに見ていない状態)を見抜き、そこから自由になること」です。言葉は、悟り、解脱、成仏、往生とさまざまですが、向いている方向は同じです。

ですから、どの系統が優れているかを問うことには、あまり意味がありません。問うべきは、「いまの自分に、どの入口が合っているか」です。

仏教の瞑想と現代のマインドフルネス — 何が引き継がれ、何が省かれたか

現代、医療や企業研修で広く行われているマインドフルネスは、仏教の瞑想、特に上座部のヴィパッサナーと禅の要素を、宗教色を抜いて再構成したものです。1970年代後半、ジョン・カバットジンが医療の場で始めたマインドフルネスストレス低減法(MBSR)が、その出発点として知られています。

マインドフルネスが仏教から引き継いだのは、「いまこの瞬間に、判断を加えずに注意を向ける」という観の技法です。これは、仏教の「念(サティ。気づき)」という概念そのものです。一方で省かれたのは、戒・定・慧の枠組み、無常・苦・無我という目指すべき洞察、そして仏や祖師への信仰です。

省いたことで、マインドフルネスは宗教を問わず誰でも取り組めるものになり、研究によって効果を検証できるようになりました。これは大きな功績です。仏教の側から見ても、仏教の瞑想が持つ普遍的な部分が、現代の言葉で世界に広がったことは喜ばしいことです。

ただ、仏教の側から一つ添えるなら、マインドフルネスは「観」の技法であって、それが置かれていた「道」の全体ではない、ということです。注意を向ける技術だけを取り出すと、「何のために注意を向けるのか」という問いが残ります。仏教は、その問いに「苦しみの根を見抜くため」と答えてきました。この問いに自分なりの答えを持つことが、技法を一時の健康法に終わらせず、生き方にまで届かせる鍵になると、私は考えています。瞑想とマインドフルネスの違い と 瞑想は宗教か — 信仰がなくてもできるか も参考にしてください。

座らない瞑想 — 読経・写経・作務も仏教の瞑想

仏教の瞑想は、座っている時間だけのものではありません。読経(お経を声に出して読む)、写経(お経を書き写す)、掃除や食事の支度などの作務は、いずれも心を一つの行為に留め、雑念を流すという点で、瞑想と同じ構造を持っています。

禅宗では、作務を坐禅と同じ修行として扱います。真言宗でも、読経や真言を唱えることは、三密のうち口密の実践であり、瞑想の一部です。浄土の称名念仏も、声に出す瞑想だと言えます。

このことは、「座る時間が取れないから瞑想はできない」と思っている方にとって、大きな救いになるはずです。朝、お茶を淹れる数分間、淹れることだけに心を置く。それは、立派な仏教の瞑想です。動く瞑想(写経・読経・掃除・作務) で詳しく述べます。

康照から、ひとこと

仏教の瞑想をこうして並べてみると、ずいぶん違うもののように見えるかもしれません。
でも、私は、違いよりも、同じところのほうに目が行きます。
どの宗派も、二千年以上、座り続けてきました。
座って、心を一つに留めて、そこから本当のことを見ようとしてきました。
その積み重ねの上に、私たちはいま座っています。
私自身は密教の観法を学んできましたが、坐禅を組む方も、ヴィパッサナーに通う方も、念仏を称える方も、同じ道を歩いている仲間だと思っています。
どの入口から入るかは、その人の縁で決まることではないでしょうか。
大事なのは、入口を選ぶことではなく、入ったあとに歩き続けることだと思うのです。
歩き続けていれば、入口の違いは、いつか気にならなくなります。

よくある質問

仏教徒でなくても、仏教の瞑想はできますか。

できます。止と観の技法そのものは、信仰を前提としません。実際、現代のマインドフルネスは仏教の技法を信仰なしで実践する形です。ただし、阿字観のように伝授を必要とするものや、仏への帰依を前提とする実践は、その宗派の作法に従う必要があります。まずは数息観のような基本から始め、関心が深まれば、その宗派の門を叩くとよいでしょう。

サマタとヴィパッサナー、初心者はどちらから始めるべきですか。

多くの伝統は、サマタ(止)から入ることを勧めています。心がざわついたままでは、観る力が足りないからです。数息観で心を留める練習をしばらく続け、呼吸に戻れるようになってきたら、浮かぶ思いや感覚を「生じて消えるもの」として観る段階に進みます。ただし、上座部の一部の指導では、最初から観に重心を置く方法もあります。どちらも正統な道です。

坐禅と阿字観は、何が違うのですか。

どちらも結跏趺坐または半跏坐で座る点は同じですが、坐禅は心に何も観想せず、ただ座ることに全体を込めます。阿字観は、月輪と蓮華の上の「阿」の字を心に観じ、自分の心が本来清らかで、すべてが本不生であることを観ていきます。坐禅が「引き算」の瞑想だとすれば、阿字観は、具体的な対象を通して本来の姿を「思い出す」瞑想だと言えます。

禅定の深い段階に入らなければ、瞑想の意味はないのですか。

そんなことはありません。禅定の階梯は、深さの地図であって、到達しなければならない目標ではありません。初禅にも入らない浅い集中でも、日常の心のあり方は変わります。むしろ、深い段階を急いで目指すと、高揚感や特殊な体験を追い求めることになり、魔境と呼ばれる状態に入りやすくなります。日々の短い実践を、地図を参考にしながら無理なく続けることが大切です。

念仏を唱えるだけで瞑想になるのですか。

なります。心を一つの名に留め、他の思いから離れるという点で、称名念仏は止の瞑想と同じ構造を持っています。ただし、気持ちを込めずに口だけで唱えていれば、それは雑念の中で声を出しているだけになります。称える声に心を乗せ、声に戻り続けることが、念仏を瞑想にします。真言を唱える密教の実践も同じです。

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参考文献

  • 智顗『天台小止観』(関口真大 訳注、岩波文庫)
  • 智顗『摩訶止観』(関口真大 訳注、岩波文庫)
  • 道元『正法眼蔵』(水野弥穂子 校注、岩波文庫)
  • 『観無量寿経』(中村元・早島鏡正・紀野一義 訳注『浄土三部経(下)』岩波文庫)
  • 空海『即身成仏義』(宮坂宥勝 監修『空海コレクション 1』ちくま学芸文庫)
  • Jon Kabat-Zinn, Full Catastrophe Living, Delacorte Press, 1990(邦訳『マインドフルネスストレス低減法』北大路書房)