禅定とは — 四禅の階梯と九次第定をやさしく解説

仏教・密教の瞑想

禅定(ぜんじょう)とは、心が一つの対象に定まり、ざわめきが静まった状態のことで、仏教はその深まりを初禅から第四禅までの四つの段階(四禅)として整理しました。
その先に四つの無色定と滅尽定を加えた九つの段階を「九次第定(くしだいじょう)」と呼びますが、禅定は悟りそのものではなく、悟りに至るための澄んだ心の土台です。
日常の瞑想では、深い禅定に到達することより、「集中には段階があり、途中の高揚は最終ではない」という地図として禅定を知っておくことが役に立ちます。

禅定とは何か — 言葉の意味

禅定は、サンスクリット語のディヤーナを音写した「禅那(ぜんな)」の「禅」に、意味を訳した「定」を添えた言葉です。ディヤーナは「静かに思う」「心を一つに集める」という意味で、禅宗の「禅」も、この同じ言葉に由来します。

仏教の修行の全体は、戒・定・慧の三学に整理されます。戒は生活を整えること、定は心を静めること、慧は静まった心で真理を見抜くことです。禅定は、この三学の真ん中の「定」にあたります。また、大乗仏教が説く菩薩の六つの実践(六波羅蜜)にも、禅定波羅蜜として含まれています。禅定は、仏教のあらゆる系統で、修行の中心に置かれてきました。

大切なのは、禅定が「心地よい状態」や「特別な体験」ではなく、「心が一つに定まっている状態」だという点です。心が定まれば、結果として安らぎが生じますが、安らぎそのものが禅定ではありません。この区別を押さえておくと、後で述べる「禅定は悟りではない」という点が理解しやすくなります。

四禅 — 色界の四つの段階

仏教は、禅定の深まりを段階として整理しました。最も基本的なのが四禅(しぜん)です。古い経典では、釈尊自身が悟りの夜に四禅を順に経て、そこから真理を見抜いたと伝えられています。四禅は、心の働きのどれが静まり、どれが残っているかによって区別されます。

初禅(しょぜん)。感覚的な欲望や不善の思いから離れ、心が対象に向かい続ける段階です。まだ、対象に心を向ける働き(尋、じん)と、対象を細かく吟味する働き(伺、し)が残っています。離れたことによる喜び(喜)と、体の安らぎ(楽)があります。日常の瞑想で「雑念が減って、呼吸に戻れるようになった」と感じる状態は、この初禅の入口にあたるとされます。

第二禅。尋と伺という考える働きが止み、心が静かに一つに定まります。喜びと安らぎは、集中そのものから生じるようになります。思考が静まり、内側が澄んでいく感覚です。

第三禅。喜びの高ぶりが収まり、静かな安らぎ(楽)だけが残ります。喜びは心を揺らすものでもあるため、それが静まった第三禅は、より落ち着いた段階とされます。

第四禅。安らぎも超えて、苦でも楽でもない、澄みきった平静(捨、しゃ)と、心が一つであること(一境性)だけがある段階です。経典は、この第四禅の心を「清らかで、柔らかく、働きやすく、揺るがない」と形容しています。釈尊は、この第四禅から、自分の過去世を知る智、生きものの生死の仕組みを知る智、そして苦しみの根を断つ智(三明)へと進んだとされます。

四つの段階を通して見ると、一つの流れが見えてきます。考える働きが静まり、喜びが静まり、安らぎが静まり、最後に平静だけが残る。禅定が深まるとは、心の働きが足し算されていくことではなく、引き算されていくことなのです。

四無色定と滅尽定 — 九次第定

四禅の先には、さらに四つの段階が説かれます。四禅が「色界(物質的な対象がまだある世界)」の禅定であるのに対し、これらは「無色界」の禅定、すなわち四無色定(しむしきじょう)です。

  • 空無辺処(くうむへんしょ):空間が無限であることに心を留める
  • 識無辺処(しきむへんしょ):意識が無限であることに心を留める
  • 無所有処(むしょうしょ):何も存在しないということに心を留める
  • 非想非非想処(ひそうひひそうしょ):想いがあるのでもなく、ないのでもない境地

これらは、対象がしだいに希薄になっていく禅定で、四禅よりもさらに微細な段階とされます。そして、その先に、心の働きがすべて止んだ滅尽定(めつじんじょう)が置かれます。四禅、四無色定、滅尽定を合わせた九つの段階が、九次第定です。

ただし、日常の瞑想を行う人が、四無色定や滅尽定を意識する必要はありません。これらは、長い時間をかけて専門に修行する人のための段階です。ここで知っておくべきことは、一つだけです。禅定には、思っているよりもずっと深い段階があり、途中で感じる喜びや高揚は、ごく初期のものだということです。

禅定は悟りではない — 釈尊の二人の師

禅定について最も大切な点は、禅定そのものが仏教の目的ではない、ということです。

経典によれば、釈尊は出家の後、二人の瞑想の師のもとで学びました。一人はアーラーラ・カーラーマで、無所有処の禅定を教えました。もう一人はウッダカ・ラーマプッタで、非想非非想処の禅定を教えました。釈尊はいずれの禅定も短期間で体得しましたが、「これは苦しみを終わらせる道ではない」と見て、師のもとを去ります。

この話は、深い禅定が仏教以前のインドにすでにあったこと、そして釈尊が禅定だけでは足りないと判断したことを示しています。釈尊が加えたのは、静まった心で縁起と無常を観る「観(ヴィパッサナー)」でした。禅定(止)は、観が働くための澄んだ心を用意するものであり、観によって真理が見抜かれて初めて、苦しみの根が断たれる。これが仏教の立場です。

ですから、「深い禅定に入ること」を瞑想の目標にすると、方向を誤ります。禅定の心地よさや特殊な体験に留まることは、仏教の伝統では、進むべき道の途中で足を止めることだとされてきました。禅定と観の関係は 止観とは — 天台と真言 で詳しく述べています。

日常の瞑想で禅定の地図をどう使うか

禅定の階梯は、到達しなければならない目標ではなく、自分の瞑想がいまどのあたりにあるかを知るための地図です。日常の実践では、次のように使うとよいと思います。

第一に、「喜びや高揚は途中の段階」と知っておくことです。瞑想を続けていると、ふと深い安らぎや、わけもなく嬉しい感覚が訪れることがあります。それは初禅や第二禅の喜(喜び)にあたる、自然な現象です。悪いものではありませんが、それを追い求めると、瞑想が「気持ちよさ探し」に変わります。地図を知っていれば、「これは途中だ」と静かに通り過ぎることができます。

第二に、「考える働きが残っていてもよい」と知っておくことです。初禅には尋と伺、つまり考える働きが残っているとされます。雑念がまだあっても、呼吸に戻れていれば、それは立派な禅定の入口です。「雑念があるから自分はできていない」という自己評価は、地図を見れば必要のないものだと分かります。瞑想がうまくできているか分からない も参考にしてください。

第三に、「深さを急がない」ことです。禅定の深い段階には、強い体験が伴うことがあり、それを急いで求めると、魔境(まきょう)と呼ばれる状態に入りやすくなります。瞑想中の異常な体験は、脳が及ぼす反応です。過度な瞑想はやめ、酷い場合は心療内科等を受診してください。瞑想の危険性 — 魔境・禅病とは何か と 瞑想のやりすぎ — 過度な瞑想の弊害 をご覧ください。

私自身の毎日の瞑想は、短い日は10分、長い日は60分で、サマタ(止)の瞑想が多いのですが、禅定の階梯を目標として意識することはありません。心を留め、離れたら戻す。それを続けるだけです。地図は、迷ったときに取り出すものであって、歩きながらずっと眺めるものではないと思っています。

各系統における禅定

禅定の階梯は、仏教の系統ごとに扱いが少し異なります。

上座部仏教では、禅定の各段階が詳しく分析され、五世紀にブッダゴーサが著した『清浄道論(しょうじょうどうろん)』が、その体系的な手引きとして知られています。初禅に入るための対象(業処)の選び方、各段階の見分け方が、きわめて細かく説かれています。

禅宗では、禅定の段階を細かく分けることをあまりしません。「ただ座る」ことに全体を込め、段階を追って深めるという発想から離れます。これは禅定を軽んじているのではなく、段階を意識すること自体が執着になるという考え方です。坐禅と瞑想の違い で述べています。

密教では、月輪観や阿字観のような観法が、心を留める止の段階と、心の本来の姿を観る観の段階を含んでいますが、四禅の階梯を段階として数えることは通常ありません。密教は「本来すでに仏である自分を思い出す」という立場を取るため、深めていく階梯よりも、本来の姿に気づくことに重心があります。いずれの系統も、禅定を軽んじてはいませんが、地図の使い方が違うのです。どの使い方が正しいということではありません。

康照から、ひとこと

四禅の話を初めて読んだとき、私は少し安心しました。
初禅には、まだ考える働きが残っている、と書いてあったからです。
雑念があっても、戻れていればいい。
二千年以上前に、そう整理してくれた人がいたのです。
私は、禅定を目指して座っているわけではないと思っています。
むしろ、座っているうちに、心が勝手に静まっていく。
その静まり方に名前がついていた、というだけのことではないでしょうか。
地図は、迷ったときに見ればいい。
歩いているときは、足元の呼吸だけで十分だと思っています。

よくある質問

初禅に入れたかどうか、どうすれば分かりますか。

自分で判断するのは難しく、また、判断しようとすること自体が集中を乱します。雑念が減り、呼吸に戻ることが自然になり、座ることに静かな喜びがある。その程度の目安で十分です。段階の判定にこだわるより、続けることのほうが大切です。

禅定に入らないと、瞑想の意味はないのですか。

そんなことはありません。禅定の階梯は深さの地図であって、到達すべき目標ではありません。初禅の入口にも至らない浅い集中でも、日々の心のあり方は変わります。むしろ、深さを急ぐほうが危険です。

禅定と禅宗の「禅」は同じですか。

言葉の由来は同じで、どちらもサンスクリット語のディヤーナに遡ります。ただし、禅宗の「禅」は、宗派の名前であり、坐禅という実践の全体を指します。禅定は、宗派を問わず、心が定まった状態を指す一般的な言葉です。

滅尽定とは、死ぬことですか。

違います。滅尽定は、心の働きが一時的に止んだ、きわめて深い禅定の状態とされますが、命は保たれており、そこから出ることができます。専門の修行者のための段階であり、日常の瞑想で目指すものではありません。

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参考文献

  • ブッダゴーサ『清浄道論』(Visuddhimagga。五世紀、上座部仏教の修行体系の綱要書)
  • 智顗『天台小止観』(関口真大 訳注、岩波文庫)