瞑想は宗教か — 信仰がなくてもできるかに誠実に答える

比較・判断

瞑想そのものは、宗教ではありません。信仰がなくても、瞑想はできます。
ただし、瞑想の多くは仏教をはじめとする宗教の中で生まれ、磨かれてきた実践であり、その歴史を無視することもできません。
仏教由来でありながら宗教色を抜いた系統(マインドフルネスなど)もあり、どこまで宗教に近づくかは、実践する人が選べます。

「瞑想は宗教か」という問いが生まれる理由

瞑想に興味を持った方の多くが、どこかの段階でこの問いにぶつかります。「瞑想を始めたら、何かの宗教に入ることになるのではないか」「家族に変に思われないか」「自分は無宗教なのに、仏教の瞑想をしていいのか」。

この不安は、もっともなものです。日本では「宗教」という言葉に、特定の教団への所属、勧誘、金銭的な負担といった印象がつきまといます。瞑想を学ぼうとして、気がつけば何かの団体に深く関わっていた、という話を聞いたことのある方もいるでしょう。

ですから、この問いには、曖昧にせず、誠実に答える必要があります。私は僧侶の肩書きを持っていますが、このサイトでは特定の宗派の立場からではなく、あらゆる瞑想法を平等に扱う一人の瞑想指導者・瞑想研究者として、できるだけ公平に、瞑想と宗教の関係を整理します。

瞑想は「技法」であり、宗教は「体系」である

まず、言葉を分けます。

瞑想は、心を一つの対象に向ける、あるいは起きていることを観察する、という「技法」です。呼吸を数える、体の感覚を観る、一つの像を心に描く。これらは、信仰の有無とは無関係に、誰でも行える行為です。

宗教は、世界や人生をどう理解するかという教え、それに基づく儀礼、共同体、倫理などを含む「体系」です。仏教であれば、苦の原因と解放についての教え、戒律、僧団、儀式などが含まれます。

瞑想は、宗教という体系の中で発達した技法の一つですが、技法そのものは体系から切り離すことができます。たとえば、数息観(息を数える瞑想)は仏教で古くから行われていますが、息を数える行為自体に、仏教への信仰は必要ありません。

この意味で、「瞑想は宗教か」という問いへの第一の答えは、「瞑想は宗教の中で育った技法だが、技法としては宗教ではない」となります。

仏教由来の瞑想と、世俗化した瞑想

とはいえ、現在広まっている瞑想の多くが、仏教に由来していることは事実です。

仏教の瞑想は、釈尊の時代から二千年以上かけて、サマタ(止。一つの対象に心を留める集中の瞑想)とヴィパッサナー(観。ありのままに観察する瞑想)という二つの柱を中心に、禅宗の坐禅、天台の止観、真言密教の阿字観など、さまざまな形に発展してきました。

その一方で、仏教の瞑想から宗教的な枠組みを外し、技法だけを取り出した系統があります。代表が、1979年にジョン・カバットジンが医療の現場向けに体系化したマインドフルネスストレス低減法(MBSR)です。彼は、仏教の瞑想を学んだうえで、病院で多様な信仰の患者に提供するために、意図的に宗教色を抜きました。この系統は「世俗的マインドフルネス」と呼ばれることもあります。

また、超越瞑想(TM)はインドの伝統に由来しますが、宗教ではなく技法として提供されています。ヨガの瞑想もヒンドゥー教の伝統を背景に持ちますが、現代のヨガスタジオで宗教への帰依を求められることは、ほとんどありません。

したがって、瞑想には、宗教の体系の中で行われるものと、体系から切り離されて技法として行われるものの、両方がある、というのが第二の答えです。どちらを選ぶかは、実践する人の自由です。

信仰がなくても瞑想はできる — その根拠

信仰がなくても瞑想ができる、ということの根拠を、三つ示します。

第一に、瞑想の基本動作に信仰は含まれない。背筋を伸ばして座り、呼吸を数え、雑念が浮かんだら流す。この一連の動作のどこにも、仏や神を信じる要素はありません。

第二に、仏教自身が、瞑想を「信じること」より「試すこと」として説いてきた。釈尊は、自分の教えを盲目的に信じるのではなく、自分で確かめるようにと繰り返し語っています。仏教の瞑想は、信仰の表明ではなく、自分の心を自分で観察する実験として設計されています。

第三に、現代の医療や心理学の現場で、信仰を前提としない瞑想が実際に行われている。MBSRや、うつの再発予防を目的としたマインドフルネス認知療法(MBCT)は、宗教的な枠組みなしに提供され、研究の対象になっています。

私自身、瞑想を「宗教の儀式」ではなく、「人生後半を整える実践」として位置づけています。仏教の瞑想を学んできましたが、特定の宗派を土台にせず、現代の言葉で伝え、信仰を求めることはしません。

仏教の瞑想から見た補足 — 信仰と瞑想の深さ

ここからは、仏教の瞑想の伝統、とくに密教の観法を一つの例に取って、もう少し踏み込んで答えます。これは数ある伝統の一つの視点です。

密教の瞑想、たとえば阿字観(梵字「阿」を月輪の上に観想する瞑想)は、技法としては「一つの像を心に描き、それと一つになる」という観想法です。この技法そのものは、信仰がなくても行えます。実際、真言宗の寺院が開く一般向けの阿字観の会には、仏教徒でない方も参加しています。

ただし、正直に言えば、密教の瞑想には「信仰があるとき、開く扉」があります。阿字が本不生(すべてはもとより仏の働きとして在る、という真理)を表すという意味づけを、「そういう考え方もある」と受け取るのと、「本当にそうだ」と受け取るのとでは、観想の深さが変わります。これは密教に限らず、仏教の瞑想全般に言えることです。

しかし、これは「信仰がないと瞑想ができない」という意味ではありません。「信仰があると、瞑想が別の深さを持つことがある」という意味です。そして、その信仰は、瞑想を始める前に求められるものではなく、瞑想を続ける中で、自然に芽生えることもあれば、芽生えないこともある、というものです。

密教には、「信じてから瞑想する」のではなく、「瞑想しているうちに、信じるかどうかが自分で分かる」という順序があります。空海の即身成仏の教えも、「この身このままで仏の働きと一つである」という事実を、まず体で確かめることから始まります。信仰は、入口の条件ではなく、道の途中で出会うかもしれないものです。

ですから、私の答えはこうです。信仰がなくても、瞑想はできます。信仰があれば、瞑想は別の深さを持つことがあります。どちらを選ぶかは、瞑想する人が、自分で決めればよいことです。

瞑想を宗教から切り離すことの、功と罪

公平を期すため、瞑想を宗教から切り離すことの両面にも触れておきます。

功:切り離したことで、瞑想は信仰のない人、異なる信仰を持つ人、医療や教育や企業の現場に、広く開かれました。科学的な検証の対象にもなりました。これは大きな功績です。

罪とされる面:仏教の瞑想は、本来、倫理(戒)、集中(定)、智慧(慧)の三つが一体となった道の一部でした。技法だけを取り出すと、「ストレスを減らして生産性を上げる道具」として消費されやすくなります。また、瞑想の深まりにともなって現れる心の反応(不安の増大、強い感情の噴出など)に対処する知恵は、宗教の体系の中に蓄積されており、技法だけを取り出すと、その知恵が失われることがあります。

どちらが正しいということではありません。技法として始め、必要になったら体系に触れる。その順序で十分だと私は思っています。

「瞑想を始めると、何かの宗教に入ることになるか」への答え

最後に、冒頭の不安に、はっきり答えておきます。

瞑想を始めても、何かの宗教に入ることにはなりません。瞑想の会や講座で、入信や寄付や勧誘を強く求められるとしたら、それは瞑想の問題ではなく、その団体の問題です。瞑想を学ぶ場を選ぶ際は、以下の点を見ておくとよいでしょう。

  • 入信や寄付を求められないか
  • 「この瞑想だけが正しい」と他の瞑想を否定していないか
  • 瞑想の限界(医療の代わりにはならない、など)を正直に伝えているか
  • いつでもやめられる自由があるか

真言宗の寺院の瞑想会や坐禅会も、多くは一般に開かれており、檀家になることや信仰を持つことを条件にしてはいません。宗教の場で行われる瞑想が、即ち宗教への入信を意味するわけではないのです。

康照から、ひとこと

私は、瞑想を「信仰の証明」として教えたことはありません。
瞑想は、宗教の儀式ではなく、人生後半を整える実践だと思っています。
信仰がなくても、座れます。息を数えられます。雑念を流せます。
それで十分です。
ただ、座り続けていると、ある日、「自分はいったい何と一つになっているのだろう」という問いが浮かぶことがあります。
その問いが浮かんだとき、仏教は、千年以上かけて用意してきた言葉を持っています。
使うかどうかは、その方が決めればよいのではないでしょうか。
扉は開いています。入るかどうかは、自由です。

よくある質問

無宗教ですが、お寺の瞑想会に参加してもよいですか

多くの寺院の瞑想会・坐禅会は、信仰の有無を問わず開かれています。事前に寺院へ確認すれば、安心して参加できます。

キリスト教徒ですが、仏教の瞑想をしてもよいですか

技法としての瞑想は、信仰を問いません。キリスト教にも観想や黙想の伝統があり、仏教の瞑想と共通する部分も多くあります。ご自身の信仰との折り合いは、ご自身で判断されればよいと思います。

マインドフルネスは本当に宗教色がないのですか

MBSRをはじめとする現代のマインドフルネスは、宗教的な信仰や儀礼を含まない形で設計されています。源流が仏教にあることは事実ですが、実践に信仰は必要ありません。マインドフルネス瞑想とは — 仏教との関係 をご覧ください。

瞑想と祈りは何が違いますか

瞑想は心を観察し整える実践、祈りは何かに向かって願いや感謝を向ける行為です。重なる部分もありますが、方向が異なります。瞑想と祈りの違い で整理しています。

瞑想をしていると、自然に仏教を信じるようになりますか

なる方もいれば、ならない方もいます。瞑想は信仰を生む装置ではなく、自分の心を観る実践です。何を信じるかは、その観察の結果として、ご自身が決めることです。

関連するページ

参考文献

  • Jon Kabat-Zinn, Full Catastrophe Living, 1990, Delacorte Press(邦訳『マインドフルネスストレス低減法』)
  • 空海『即身成仏義』