マインドフルネス瞑想とは、「今この瞬間に起きていることに、評価を加えずに注意を向ける」瞑想です。
源流は仏教のサティ(念・気づき)にあり、1979年にジョン・カバットジンが医療の現場向けに宗教色を抜いて体系化したことで世界に広まりました。
仏教の瞑想から見れば、マインドフルネスはその一部を現代語に翻訳したものであり、否定する理由も、過大に見る理由もありません。
マインドフルネスの定義
マインドフルネス(mindfulness)という言葉は、現在では広い意味で使われていますが、もっともよく引かれる定義は、ジョン・カバットジン(Jon Kabat-Zinn)によるものです。彼はマインドフルネスを「意図的に、今この瞬間に、評価をせずに注意を向けること」と表現しました。
ここには三つの要素が含まれています。
- 意図的に:ぼんやりと流されるのではなく、自分の意思で注意を向ける
- 今この瞬間に:過去の後悔や未来の心配ではなく、いま起きていることに
- 評価をせずに:「良い」「悪い」「うまくいっている」「失敗だ」という判断を加えない
マインドフルネス瞑想とは、この三つの態度を、呼吸や体の感覚、音、思考などを対象にして練習する瞑想です。呼吸に注意を向け、思考が浮かんだらそれに気づき、評価せずに呼吸へ戻る。この繰り返しが基本の形になります。
MBSR — 1979年、医療の現場から
マインドフルネスが世界に広まったきっかけは、1979年、米国マサチューセッツ大学医療センターでカバットジンが始めたプログラム、マインドフルネスストレス低減法(MBSR:Mindfulness-Based Stress Reduction)です。
カバットジンは分子生物学の研究者であると同時に、仏教の瞑想を学んだ実践者でもありました。彼は、慢性疼痛やストレスを抱える患者のために、仏教の瞑想の技法から宗教的な枠組みを外し、8週間のプログラムとして組み立てました。坐る瞑想、ボディスキャン(体の各部位に順に注意を向ける瞑想)、ヨガの動き、歩く瞑想などが組み合わされています。
その後、MBSRをもとに、うつの再発予防を目的としたマインドフルネス認知療法(MBCT)などが開発され、心理学や医学の研究対象として広く取り上げられるようになりました。瞑想の効果に関する研究の多くは、このMBSRやMBCTを用いたものです。
研究については、2014年にGoyalらが発表したメタ分析(複数の研究をまとめて評価した研究)が知られています。そこでは、マインドフルネス瞑想プログラムが不安・抑うつ・痛みに対して中程度の改善を示唆する一方、他の積極的な治療法より優れているという明確な証拠は得られなかった、と報告されています。「効く」とも「効かない」とも言い切らない、慎重な結論です。
源流としての仏教のサティ(念)
マインドフルネスは、英語圏でパーリ語の「サティ(sati)」を翻訳する語として、19世紀末から使われてきました。サティは漢訳仏典では「念(ねん)」と訳されます。「念」は「今」と「心」を合わせた字で、心を今ここに留めておく、対象を忘れずに保つ、という意味を持ちます。
仏教では、サティは八正道(はっしょうどう。釈尊が説いた八つの実践の道)の一つ「正念(しょうねん)」として位置づけられます。また、『念処経(ねんじょきょう)』という経典では、身体・感受・心・法(心の対象)の四つに対して気づきを保つ「四念処(しねんじょ)」の実践が説かれています。これが、現代のマインドフルネス瞑想の直接の源流です。
ただし、仏教のサティは単独で存在するものではありません。正しい見方(正見)、正しい行い、正しい生活、正しい集中(正定)などとセットになった、生き方全体の一部でした。サティだけを取り出して練習する、という発想は、仏教の内側から見ると比較的新しいものです。
なぜ宗教色が抜かれたのか
カバットジンが仏教の枠組みを外したのには、はっきりした理由がありました。病院という公共の場で、さまざまな信仰を持つ患者に提供するには、特定の宗教の言葉や儀礼を含めるわけにはいかなかったのです。「仏教徒になってください」ではなく、「注意の向け方を練習してください」という形にしたからこそ、医療・教育・企業の現場に広がりました。
この「世俗化」には、功と罪の両面があると言われます。功の面は、瞑想を宗教に関心のない人にも開いたこと、科学的な検証の対象にしたことです。罪とされる面は、仏教が本来持っていた倫理や智慧の側面が薄れ、「ストレスを減らして生産性を上げる技術」として消費されやすくなったことです。英語圏では「マックマインドフルネス」という批判的な造語もあります。
公平に言えば、カバットジン自身は、マインドフルネスを単なる技術ではなく「生き方」として語り続けています。問題は手法そのものよりも、受け取る側がどこまで浅く、あるいは深く扱うか、にあるのだと思います。
仏教側から見た位置づけ
では、仏教の瞑想の伝統の側から見ると、マインドフルネスはどう位置づけられるでしょうか。これは数ある見方の一つです。
まず、マインドフルネス瞑想の中身は、仏教のサマタ(止。一つの対象に心を留める集中の瞑想)とヴィパッサナー(観。起きていることをありのままに観察する瞑想)のうち、主にヴィパッサナーの入口にあたる部分を、現代語で整えたものです。呼吸への注意はサマタ的な要素、浮かぶ思考への気づきはヴィパッサナー的な要素と言えます。技法として見れば、仏教の瞑想と連続しています。
一方で、仏教の瞑想が目指すものは、ストレスの軽減や集中力の向上そのものではありません。仏教では、苦しみの根本にある執着や無明(むみょう。ものごとの本当の姿を見ていないこと)を見抜き、そこから解き放たれることが目的です。マインドフルネスは、その長い道の、最初の数歩を丁寧に整えたものと言えるでしょう。
密教の観法についてもう一つ添えるなら、密教の瞑想は「気づく」ことに加えて、「仏の働きと一つになる」方向を持っています。身体(印)・言葉(真言)・心(観想)の三密(さんみつ)を調えることで、この身のまま仏の智慧に触れていく。マインドフルネスが「ありのままを見る」瞑想なら、密教の瞑想は「ありのままの奥にある働きと響き合う」瞑想だ、と私は理解しています。どちらが上ということではなく、方向が異なるのです。
マインドフルネス瞑想の基本のやり方
もっとも基本的な、呼吸を対象にしたマインドフルネス瞑想の手順です。
- 椅子でも床でもかまいません。背筋を自然に伸ばし、肩の力を抜いて座ります。
- 目は軽く閉じるか、半眼(薄く開けて斜め下を見る)にします。
- 呼吸をコントロールせず、自然な呼吸が体のどこで感じられるかに注意を向けます。鼻先、胸、お腹など、感じやすい場所でかまいません。
- 思考や音、体の感覚に注意がそれたら、「それた」と気づき、評価を加えずに呼吸へ戻ります。
- これを10分ほど続けます。「何度もそれる」のは失敗ではなく、気づいて戻ること自体が練習です。
雑念が消えないことに悩む方は多いのですが、仏教の瞑想でも、雑念は消すものではなく流すものです。詳しくは 瞑想中に雑念が消えないとき をご覧ください。
康照から、ひとこと
私は、マインドフルネスを「仏教の瞑想の薄い版」だとは思っていません。
むしろ、千年以上前の智慧を、信仰のない方にも開いてくれた、大きな翻訳だと思っています。
ただ、入口で立ち止まってしまうのは、少しもったいないのではないでしょうか。
ストレスが減る、集中できる。それはそれで、よいことです。
けれど、その先には「自分は何のために生きているのか」という問いが待っています。
マインドフルネスが入口だとしたら、仏教の瞑想はその奥に続く長い廊下です。
どこまで進むかは、その人が決めればよいことだと思っています。
よくある質問
マインドフルネスは宗教ですか
MBSRをはじめとする現代のマインドフルネスは、宗教的な信仰や儀礼を含まない形で設計されています。源流は仏教にありますが、実践に信仰は必要ありません。詳しくは 瞑想は宗教か — 信仰がなくてもできるか をご覧ください。
マインドフルネスと瞑想は同じものですか
マインドフルネスは瞑想の一つの形であり、同時に日常の中での態度でもあります。瞑想のほうが広い言葉です。詳しくは 瞑想とマインドフルネスの違い で整理しています。
仏教徒でなくてもサティ(念)の瞑想をしてよいのですか
かまいません。仏教の側から見ても、気づきの実践は誰にでも開かれています。ただし、仏教の瞑想の全体像を知ると、マインドフルネスがその一部であることが分かり、実践の見え方が変わってきます。
MBSRの8週間プログラムを受けないと効果はありませんか
研究の多くはMBSRのような構造化されたプログラムを対象にしているため、「毎日10分の自己流でも同じ」とは言えません。ただ、短い実践を続けることに意味がないわけでもありません。研究の限界も含めて 瞑想の効果 — 科学が示したこと、示していないこと をご覧ください。
関連するページ
参考文献
- Jon Kabat-Zinn, Full Catastrophe Living, 1990, Delacorte Press(邦訳『マインドフルネスストレス低減法』)
- Goyal, M. et al., “Meditation Programs for Psychological Stress and Well-being: A Systematic Review and Meta-analysis,” JAMA Internal Medicine, 2014
- 『念処経』(Satipaṭṭhāna Sutta、中部経典第10経)


