慈悲の瞑想(メッタ瞑想)とは、「幸せでありますように」という願いを、自分から始めて、親しい人、見知らぬ人、苦手な人、生きとし生けるものすべてへと、順に広げていく瞑想です。
仏教の初期から伝わる実践で、心を一つの思いに留めるという点ではサマタ(止)の瞑想に数えられます。
怒りや孤立感がほぐれていく方向に働く瞑想として、仏教の内外で広く行われています。
メッタの意味
メッタ(mettā)はパーリ語で、「慈しみ」「友情」「好意」を意味します。語源は「友(mitta)」に近く、相手の幸せを願う、友のような温かい心を指します。漢訳では「慈(じ)」と訳され、「慈悲」という熟語の「慈」がこれにあたります。
仏教では、慈(相手の幸せを願う心)、悲(相手の苦しみが除かれることを願う心)、喜(相手の幸せを共に喜ぶ心)、捨(偏りなく平等に向き合う心)の四つを「四無量心(しむりょうしん)」と呼び、どれも限りなく広げていくべき心とされます。慈悲の瞑想は、このうち「慈」を中心に、四つの心を育てる実践です。
初期経典の『慈経(じきょう。Metta Sutta)』には、「母が一人子を命がけで守るように、生きとし生けるものに対して無量の慈しみの心を起こすべきである」という趣旨の有名な一節があり、慈悲の瞑想の原型を伝えています。
慈悲の瞑想の基本のやり方
系統によって言葉は異なりますが、骨格は共通しています。ここでは、上座部仏教で広く用いられる形を手順として示します。
- 椅子でも床でもよいので、背筋を伸ばして坐ります。目は閉じるか半眼にします。
- 数回、呼吸に注意を向けて心を落ち着かせます。
- まず自分自身に向けて、心の中で静かに唱えます。「私が幸せでありますように。私の悩み苦しみがなくなりますように。私の願いごとが叶えられますように。」
- 次に、親しい人(家族、友人、恩人)を一人思い浮かべ、同じ言葉を向けます。「あなたが幸せでありますように……」
- 続いて、顔は知っているが特に親しくもない人(近所の人、店員など)に向けます。
- その次に、苦手な人、わだかまりのある人に向けます。難しければ、無理に強い相手を選ばず、少し苦手な程度の人から始めます。
- 最後に、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、すべての存在へ広げます。
- 10分から15分を目安に行い、終わるときはゆっくりと目を開けます。
言葉は、自分に馴染むものに変えてかまいません。大切なのは、言葉を唱えながら、その願いの温かさを、できる範囲で胸に感じることです。感じられない日があっても、言葉を置くだけで十分です。
順序に意味がある — なぜ自分から始めるのか
慈悲の瞑想が「自分」から始まることに、戸惑う方がいます。「他人のために祈るのが慈悲ではないのか」と。
仏教の考え方では、自分に向けられない慈しみは、他人にも本当には向けられません。自分を責め続けている人が、他人の幸せを心から願おうとすると、どこかで無理が生じます。まず自分の幸せを願うことは、わがままではなく、慈しみの泉を確かめる作業です。
苦手な人を後のほうに置くのも、同じ理由です。温かさが十分に育っていない段階で苦手な人を思い浮かべると、慈しみではなく怒りや悔しさが湧いてしまいます。親しい人、見知らぬ人と順に広げて、心が温まってから、ようやく苦手な人へ向ける。順序は、心を守るための配慮です。
研究で報告されていること
慈悲の瞑想は、2000年代以降、心理学の分野でも研究の対象になっています。慈悲や思いやりに関する瞑想が、肯定的な感情や他者とのつながりの感覚を高める方向に働く可能性を示す報告があり、既存の研究を整理した総説も発表されています。
ただし、研究の多くは比較的短期間で、参加者の数や方法もさまざまです。「慈悲の瞑想をすれば怒りがなくなる」「人間関係が良くなる」と言い切れる段階ではありません。あくまで、そうした方向に働く可能性が示唆されている、という理解が適切です。
仏教の側から言えば、慈悲の瞑想は、効果を得るための技法である前に、「自分も他人も、同じように幸せを願い、同じように苦しんでいる」という事実を確かめる実践です。効果は、その確かめの副産物だと私は思っています。
仏教から見た慈悲の瞑想の位置づけ
慈悲の瞑想は、上座部仏教では四十の業処(瞑想の対象)の一つとして、サマタの瞑想に位置づけられます。心を「幸せでありますように」という一つの思いに留め続けるからです。同時に、慈悲の心が育つと、怒りという大きな妨げ(五蓋の一つ、瞋恚)が静まり、他の瞑想も進みやすくなるとされます。
大乗仏教では、慈悲はさらに中心的な位置を占めます。菩薩(ぼさつ。すべての存在を救おうと志す修行者)の道は、慈悲なしには成り立ちません。密教の根本経典『大日経』は、仏の智慧について「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」と説きます。ここでいう大悲(だいひ)は、慈悲の瞑想で育てる「慈」と「悲」が、限りなく広がった姿です。
密教の瞑想では、慈悲は瞑想の前に起こす心(発菩提心)として、また瞑想の結果として湧き出る心として、観想の前後を包んでいます。慈悲の瞑想を独立して行うのは上座部の形ですが、慈悲を瞑想の土台に置くことは、仏教のどの系統にも共通しています。
よくある誤解
「苦手な人の幸せを願うのは、相手を許すことである」 — 願うことと許すことは別です。相手の行いを認めなくても、「この人も苦しみから自由でありますように」と願うことはできます。許しは、後から来ることもあれば、来ないこともあります。
「温かい気持ちを感じなければ失敗である」 — 感じられない日は普通にあります。言葉を置き続けることが実践であり、感情は後からついてくるものです。
「慈悲の瞑想は優しい人向けの瞑想である」 — むしろ、怒りやすい人、自分を責めやすい人のために説かれた瞑想です。仏教では、怒りの対治として慈悲が説かれます。
「自分に願うのは自己中心的である」 — 先に述べたとおり、自分への慈しみは他者への慈しみの土台です。
康照から、ひとこと
葬儀や法要の場で、ご家族の静かな後悔に触れることがあります。
「もっと早く、優しくしておけばよかった」という静かな後悔を、何度も見てきました。
慈悲の瞑想は、その言葉を、生きているうちに言い換える練習なのかもしれません。
「あなたが幸せでありますように」と、心の中で唱えるだけです。
相手に伝わるかどうかは、分かりません。
でも、唱えている自分の心は、確かに少し柔らかくなります。
後悔のない生き方とは、特別なことをすることではなく、むしろ、こうした小さな願いを、今日のうちに置いておくことではないでしょうか。
よくある質問
慈悲の瞑想は毎日やるべきですか
毎日行うほうが育ちやすいですが、呼吸の瞑想の最後に数分だけ添える形でも十分です。長さより継続が大切です。
苦手な人を思い浮かべると怒りが湧いてしまいます
その段階では、苦手な人を飛ばしてかまいません。親しい人と見知らぬ人への慈しみが十分に温まってから、少しずつ試してください。怒りと瞑想については 怒り・イライラと瞑想 をご覧ください。
亡くなった人に向けて行ってもよいですか
よいと思います。仏教では、亡くなった方への回向(えこう。功徳を振り向けること)も慈悲の実践の一つです。大切な人を亡くした後の瞑想 もご覧ください。
慈悲の瞑想と祈りは同じですか
形は似ていますが、祈りが仏や神に願うものであるのに対し、慈悲の瞑想は自分の心の中に慈しみを育てる練習です。瞑想と祈りの違い で詳しく扱います。
関連するページ
参考文献
- 『慈経』(Metta Sutta、小部経典『経集』第1章第8経)
- ブッダゴーサ『清浄道論』(Visuddhimagga)
- 『大毘盧遮那成仏神変加持経』(大日経)
- Hofmann, S. G., Grossman, P., & Hinton, D. E. (2011). Loving-kindness and compassion meditation: Potential for psychological interventions. Clinical Psychology Review, 31(7), 1126–1132.


