瞑想アプリは使うべきか — 長所と限界、そして師につくということ

比較・判断

瞑想アプリは、始める入口としては使ってよいものです。
ただし、アプリは「誘導してくれる声」であって、あなたの瞑想を見てくれる「師」ではありません。
アプリで座り始め、やがてアプリなしで座れるようになること。それが、アプリとの健全な付き合い方だと思います。

瞑想アプリとは何か

スマートフォンで使える瞑想アプリは、この十数年で大きく広がりました。本稿執筆時点で、Headspace、Calm、Insight Timer、Meditopia など、国内外で多くのアプリが提供されています。日本語に対応したものも増えています。

共通する機能は、おおむね次のようなものです。音声による誘導瞑想(声に従って呼吸や体に意識を向ける)、タイマー、鐘や環境音、睡眠導入のための音声、毎日の記録や継続日数の表示、テーマ別のコース(ストレス、睡眠、集中など)。無料で使える範囲と、有料の範囲が分かれているものが多くあります。

ここでは、特定のアプリを評価したり、比較して順位をつけたりはしません。価格や機能は変動しますし、どのアプリが合うかは人によって異なります。このページで扱うのは、「アプリという道具そのもの」の長所と限界、そして、アプリにできないことです。

アプリの長所 — 入口を低くしてくれる

アプリの長所は、はっきりしています。

始めるハードルが低い。本を読み、座り方を調べ、時間を決めて……という準備なしに、今夜、布団の上で、イヤホンをつけて始められます。「何から始めればいいか分からない」という最初の壁を、アプリは取り払ってくれます。

声が導いてくれる。一人で座ると、何をすればいいのか、今これでいいのか、不安になります。誘導の声があると、「今は呼吸に意識を向ける」「今は体の感覚を観る」と手順が示されるので、迷いが減ります。

時間が区切られる。3分、5分、10分とコースが用意されており、タイマーを気にせずに済みます。短いコースから始められるのも、続けやすさにつながります。

記録が残る。継続日数が表示されたり、座った時間が記録されたりすることで、習慣化の助けになります。

選択肢がある。寝つきを助けたい日、不安を静めたい日、集中したい日。テーマ別に音声が用意されており、その日の状態に合わせて選べます。

これらは、瞑想を「遠いもの」から「今日できるもの」に変えてくれる、大きな力です。特に、周りに瞑想を教えてくれる人がいない方にとって、アプリは最初の入口として十分に役立ちます。

アプリの限界 — アプリにできないこと

一方で、アプリには、道具としての限界があります。長所の裏返しでもあります。

誘導に依存しやすい。声に従って座ることに慣れると、声がないと座れなくなることがあります。瞑想は、本来、自分一人で、何にも頼らずに座れるようになることを目指します。声は、補助輪です。補助輪をつけたままでは、自転車に乗れるようになったとは言えません。

自分の瞑想を見てもらえない。アプリは、あなたの姿勢が崩れていること、呼吸が浅いこと、眠りかけていること、涙が出ていることを知りません。「雑念が消えない」「眠くなる」「不安が強くなった」というときに、あなたの状態を見て、あなたに合った言葉を返してはくれません。

評価の習慣がつく。継続日数、達成バッジ、週ごとの合計時間。これらは続ける助けになる反面、「今日もやったか」「何日続いたか」という評価の目を、瞑想に持ち込みます。瞑想は、評価しないことが芯にある実践です。記録のために座るようになると、本末が転倒します。

スマートフォンが手元にある。瞑想を始めるためにスマートフォンを開き、終わった瞬間に通知が目に入る。瞑想の前後が、もっとも接続された状態になる、という皮肉があります。

体系の中の位置が見えない。アプリの誘導は、多くの場合、マインドフルネスの流れを汲む短い実践です。それ自体はよいものですが、瞑想の全体像——サマタ(止)とヴィパッサナー(観)、坐禅、止観、慈悲の瞑想、密教の観想法といった体系——の中で、自分が今どこにいるのかは、アプリからは見えにくいものです。

魔境や禅病に対応できない。瞑想を続けていると、ごくまれに、強い不安や感覚の異常が出ることがあります。これは脳が及ぼす反応であり、過度な瞑想をやめ、酷い場合は心療内科等を受診する必要があります。アプリは、この状態を察知できませんし、「やめなさい」とも言ってくれません。瞑想の危険性 — 魔境・禅病とは何か をご覧ください。

師につくということ

アプリの限界をまとめると、一つの言葉になります。アプリは、「師」ではない、ということです。

仏教の瞑想は、二千数百年にわたって、師から弟子へ、直接伝えられてきました。これを師資相承(ししそうじょう)と言います。なぜ直接でなければならなかったのか。瞑想は、書物や音声で手順を知るだけでは身につかず、座っている本人には見えないことを、見ている人が指摘する必要があったからです。

姿勢の癖。呼吸の浅さ。眠りかけているのに気づいていないこと。雑念を消そうとして力んでいること。涙が出たときに、どうすればよいか。体が揺れたとき、不安が強まったとき、どこまでが自然な反応で、どこからが休むべき兆候か。これらは、自分一人では分かりにくく、アプリにも分かりません。見ている人がいて、初めて分かります。

師とは、必ずしも僧侶や有名な指導者である必要はありません。寺院の坐禅会や瞑想会で、毎回姿勢を直してくれる僧侶。長く座ってきた先輩。同じ時間に同じ場所で座り、互いの様子を見ている仲間。「自分の瞑想を見てくれる人がいる」という状態が、師につく、ということです。

アプリは、入口です。入口を通った先で、自分の瞑想を見てくれる人を一人、持ってください。それが、アプリにできない、唯一にして最大のことです。師から弟子へ直接に受け継ぐ師資相承の考え方は、仏教の瞑想 — 止観・禅・密教の違い と 瞑想の資格は意味があるか にもう少し詳しく書いています。

アプリとの付き合い方 — 目安

アプリを否定するつもりはありません。使い方の目安を示します。

始めの1〜3か月は、使ってよい。何をすればいいか分からない時期に、声が導いてくれるのは助けになります。短いコースから、毎日同じ時間に。

同時に、アプリなしの時間を持つ。週に一度でも、イヤホンを外し、画面を伏せ、自分で息を数えて10分座ってください。数息観(すそくかん)です。吐く息で「ひとつ」、次の吐く息で「ふたつ」と心の中で数え、10まで数えたら「ひとつ」に戻ります。声がなくても座れる、ということを、体に覚えさせます。

記録に支配されない。継続日数が途切れても、瞑想は終わりません。途切れた翌日に、また座ればよいだけです。記録のために座っていると気づいたら、記録機能を見ないようにしてください。

タイマーとして使う。慣れてきたら、誘導音声をやめ、タイマーと終了の鐘だけを使う、という形に移ります。これは多くのアプリで可能です。

離れる時期。「声がなくても座れる」「アプリを開かなくても、同じ時間に座っている」と感じたら、アプリの役目は終わっています。手放してかまいませんし、タイマーとして残してもかまいません。

誰かに見てもらう。寺院の坐禅会、瞑想会、あるいは信頼できる指導者の場に、一度は足を運んでください。アプリで続けてきた自分の瞑想を、人の目で見てもらう。それだけで、気づくことがあります。

仏教から見たアプリ

仏教の側から、アプリを一言で位置づけるなら、「方便(ほうべん)」です。方便とは、人を導くための手立て、入口という意味です。釈尊は、相手に合わせて、さまざまな手立てで教えを説いたとされます。アプリもまた、現代の人を瞑想に導くための、一つの手立てです。

ただし、方便は、目的ではありません。筏(いかだ)で川を渡った後、筏を背負って歩く人はいない、という譬えが仏教にはあります。アプリは、川を渡るための筏です。渡った後は、置いていってよいものです。

康照から、ひとこと

私は、アプリで瞑想を始めた方を、否定したことはありません。
入口が低いことは、よいことだと思っています。
ただ、「声がないと座れない」と言われると、少し心配になります。
瞑想は、最後は一人で座るものではないでしょうか。
誰にも導かれず、ただ息を数える10分。
その10分が持てたとき、アプリの役目は、静かに終わっていると思っています。
そして、できれば、一度でいい。
あなたの座っている姿を、見てくれる人のところへ行ってみてください。

よくある質問

どの瞑想アプリがおすすめですか

ここでは特定のアプリを評価しません。無料で試せるものが多いので、いくつか使ってみて、声や雰囲気が合うものを選んでください。合わなければ変えてかまいません。

アプリだけで瞑想は上達しますか

入口としては役立ちますが、自分の瞑想を見てくれる人がいないため、ある段階で頭打ちになりやすいものです。アプリなしで座る時間と、人に見てもらう機会を、並行して持つことを勧めます。

誘導音声を聞きながら寝てしまいます

寝つきを助ける目的なら、それでかまいません。ただ、それは瞑想というより、入眠の補助です。瞑想として座るなら、起きている時間に、座って行ってください。瞑想すると眠くなる原因と対処 をご覧ください。

継続日数が途切れて、やる気がなくなりました

途切れても、瞑想は終わりません。翌日、また座ればよいだけです。記録に支配されていると感じたら、記録を見ないようにしてください。瞑想が続かない理由 もご覧ください。

アプリの瞑想は、仏教の瞑想と違いますか

多くのアプリの誘導は、マインドフルネスの流れを汲む短い実践で、仏教のサマタやヴィパッサナーの入口にあたります。異なるものではなく、体系の中の一部です。マインドフルネス瞑想とは — 仏教との関係 をご覧ください。

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