瞑想と自己催眠・ヒーリングの違い — 心地よさか、気づきか

比較・判断

瞑想と自己催眠、ヒーリングは、リラックスした状態や集中した状態を使う点で似ていますが、向かう先が違います。
自己催眠とヒーリングは、主に「心地よさ」や「望ましい状態」に向かい、仏教の瞑想は、心地よさを通り過ぎて「ものごとをありのままに観る気づき」に向かいます。
どちらが上ということではなく、目的が違うのです。目的を取り違えなければ、それぞれを別のものとして使い分けることができます。

三つの言葉の意味

まず、三つの言葉を、それぞれ一行で押さえます。

瞑想は、心を一つの対象に留めて静め(止)、静まった心でものごとをありのままに観る(観)実践です。仏教の瞑想は、苦しみの根である無明(ものごとをありのままに見ていない状態)を見抜くことを目的とします。

自己催眠は、自分自身に暗示を与えて、心身の状態を望む方向に導く技法です。リラックスを深め、「体が温かい」「心が落ち着いている」といった言葉を自分に与えて、その状態を作り出します。医学的には、シュルツが体系化した自律訓練法が、自己催眠の整った形として知られています。

ヒーリングは、幅の広い言葉で、音や手当て、言葉かけ、イメージなどを用いて、心身を癒やし、整えることを目指す実践の総称です。体系は多様で、宗教的なものも、宗教と無関係なものもあります。

三つは、いずれも「静かな状態に入る」という入口を共有しています。だから混同されやすいのです。しかし、入口の先で、向かう方向が分かれます。

似ているところ — 入口は同じ

似ているところを、先に正直に認めておきます。

第一に、どれもリラックスした状態を使います。呼吸がゆっくりになり、筋肉が緩み、思考が静まる。この状態は、瞑想でも、自己催眠でも、ヒーリングでも、同じように現れます。生理的に見れば、同じ方向の変化です。

第二に、どれも注意を一つに集めます。瞑想は呼吸や対象に、自己催眠は暗示の言葉に、ヒーリングは音や感覚やイメージに。注意が一つに集まると、雑念が減り、静けさが生まれます。これも共通です。

第三に、誘導を使う点です。他者の声に導かれて静かな状態に入る形は、催眠にも、ヒーリングにも、そして誘導瞑想にもあります。誘導瞑想は、形の上では催眠に最も近い瞑想です。誘導瞑想(ガイド瞑想)とは で述べています。

ですから、「瞑想をしているつもりで自己催眠になっていた」「ヒーリングのつもりで実は瞑想に近いことをしていた」ということは、普通に起こります。入口が同じだからです。問題は、入口ではなく、その先です。

決定的な違い — 心地よさに向かうか、気づきに向かうか

違いを一言で言えば、「心地よさに向かうか、気づきに向かうか」です。

自己催眠とヒーリングは、望ましい状態を作ることを目指します。落ち着いている、温かい、癒やされている、自信がある。そうした状態に向かって、暗示やイメージや音で心身を導きます。目的地は、心地よい、あるいは望ましい状態です。そこに到達すれば、目的は達せられています。

仏教の瞑想は、心地よい状態を目的地にしません。心が静まると、確かに心地よさが訪れます。しかし、それは通過点です。仏教の伝統は、禅定の途中で現れる喜びや安らぎを「途中の段階」と整理し、そこに留まることを戒めてきました。瞑想が目指すのは、静まった心で、ものごとをありのままに観ること、つまり気づきです。心地よさも、不快さも、「生じて滅するもの」として、等しく観る。それが観(ヴィパッサナー)です。禅定とは — 四禅の階梯 で述べたとおりです。

もう一つの違いは、「作るか、観るか」です。自己催眠は、暗示によって状態を「作り」ます。ヒーリングも、音や手当てによって状態を「整え」ます。瞑想は、状態を作らず、いまある状態を「観」ます。不安があれば不安を、痛みがあれば痛みを、消そうとせず、作り変えようともせず、観る。ここが、最も深い違いです。

さらに、「受け身か、主体か」の違いもあります。ヒーリングの多くは、施す人と受ける人がいて、受ける側は受け身です。誘導による催眠も同様です。瞑想は、誘導瞑想を除けば、自分で座り、自分で観る、主体的な実践です。

どちらが上ということではない

ここで、誤解を避けるために述べておきます。心地よさに向かうことは、悪いことではありません。

疲れ切っている人、眠れない人、不安で体が固まっている人にとって、まず心地よい状態に入ることは、大切な助けになります。自律訓練法は、医療の場で長く用いられてきた、確かな体系です。音や手当てによるヒーリングも、受ける人が安らぎを得ているなら、それは意味のあることです。仏教の瞑想の側から、それらを「浅い」「本物ではない」と言うつもりはありません。

また、仏教の瞑想にも、心地よさを入口にする面があります。止(サマタ)の瞑想で心が静まり、安らぎが生じることは、観に進むための土台です。安らぎなしに観だけを急ぐと、心がざわついたままで観る力が足りません。心地よさは、瞑想にとっても必要なものです。

違いは、心地よさを「目的地にするか、通過点にするか」にあります。自己催眠とヒーリングは目的地にし、仏教の瞑想は通過点にします。どちらを選ぶかは、その人がいま何を必要としているかで決まります。癒やされることを必要としている人に、気づきを急がせる必要はありません。逆に、癒やされるだけでは足りないと感じ始めた人には、その先の道があります。

瞑想が自己催眠になってしまうとき

ただし、一つだけ、注意しておきたいことがあります。瞑想のつもりで続けていることが、いつのまにか自己催眠になっている場合です。

たとえば、瞑想中に「私は穏やかだ」「私は満たされている」と自分に言い聞かせ続ける。あるいは、心地よい状態に入ることだけを求めて座り、不快な思いや感覚が浮かぶと、すぐに心地よいイメージに切り替える。これは、暗示によって状態を作る自己催眠であって、ありのままを観る瞑想ではありません。

それが悪いというのではありません。ただ、「瞑想をしているのに、心の根本が変わらない」と感じている人は、自分が気づきではなく心地よさに向かっていないか、一度確かめてみるとよいと思います。心地よさを目的にすると、不快なものを避け続けることになり、不快なものの根は残ります。仏教の瞑想が不快なものも観るのは、根を見抜くためです。瞑想の効果を感じないのはなぜか も参考にしてください。

逆に、観ることばかりを急いで、心が全く静まらないまま座り続けている人は、まず止(サマタ)の瞑想で心地よさを土台に作るほうがよいでしょう。サマタ瞑想(止)とは をご覧ください。

仏教から見た「作らない」ということ

仏教の瞑想が、状態を作らず、観ることに向かう理由を、もう一段だけ述べます。

仏教は、苦しみの根を、「ものごとをありのままに見ていないこと」(無明)に置きます。望ましい状態を作ることは、一時の安らぎをもたらしますが、ありのままを見る力は育てません。作られた状態は、作るのをやめれば消えます。しかし、観ることで見抜かれた「すべては変化する」「固定した私はない」という理解は、状態が変わっても残ります。

だから仏教の瞑想は、心地よい状態を作るよりも、心地よさも不快さも等しく観ることを選んできました。これは、心地よさを否定しているのではなく、心地よさに依存しない場所に立とうとしているのです。密教の観想にも、仏の姿や月の輪を心に描く「作る」要素がありますが、それは最終的に、自分の心が本来清らかであることを「思い出す」ための手段であって、作られた状態に留まるためのものではありません。

「整える」と「作る」は、似て非なるものです。整えるとは、いまあるものを、あるべき場所に戻すことです。作るとは、ないものを、新たに置くことです。私が「頑張るより、整える。」と言っているのは、この意味です。

康照から、ひとこと

心地よくなりたい、という願いを、私は否定しません。
疲れている人に、「それは本物の瞑想ではない」などと言うつもりはないのです。
まず、休んでほしいと思います。
ただ、休んだ先に、もう一つの道があることだけは、伝えておきたいのです。
心地よさを作るのではなく、いまある自分を、そのまま観る道です。
不快なものも、消さずに観る。
それは、楽な道ではありません。むしろ、少し怖い道かもしれません。
でも、作った心地よさは、作るのをやめれば消えます。
観て分かったことは、消えないのではないでしょうか。
急がなくていい。
癒やされてから、気づきに向かえば、それで十分だと思っています。

よくある質問

瞑想と自己催眠は、結局同じものではないのですか。

入口(リラックスと集中)は同じですが、向かう先が違います。自己催眠は暗示で望ましい状態を作り、瞑想はいまある状態をそのまま観ます。同じ入口から、別の方向に進むものとお考えください。

ヒーリングを受けることは、瞑想の妨げになりますか。

なりません。癒やされることは、心が静まるための助けになります。ただし、ヒーリングを受けることと、自分で座って観ることは、別の実践です。受け身の癒やしだけで、観る力が育つわけではありません。

アファメーション(肯定的な言葉を唱えること)は瞑想ですか。

自己催眠に近いものです。望ましい状態を言葉で作る点で、ありのままを観る瞑想とは方向が違います。悪いことではありませんが、「瞑想」として行うなら、言葉を唱えた後に、唱えている自分の心を静かに観る時間を添えると、瞑想に近づきます。

誘導瞑想は、催眠ではないのですか。

形の上では最も近いものです。他者の声に導かれて静かな状態に入る点は共通です。違いは、誘導の先にあります。心地よいイメージに留まるなら催眠に近く、静まった心で自分の内側を観る方向に導くなら瞑想です。誘導瞑想(ガイド瞑想)とは をご覧ください。

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参考文献

  • 佐々木雄二『自律訓練法の実際 — 心身の健康のために』創元社
  • 智顗『天台小止観』(関口真大 訳注、岩波文庫)