瞑想とヨガの違いを一言で言えば、古典のヨガでは瞑想はヨガの一部(最終段階)であり、現代のヨガではポーズと呼吸が中心で瞑想は締めくくりに置かれることが多く、仏教では瞑想そのものが中心にあります。
つまり、瞑想とヨガは別のものではなく、重なり方が、時代と流派によって違うのです。
どちらが上ということはなく、体から入りたいならヨガ、心から入りたいなら瞑想、というのが選び方の目安になります。
「瞑想とヨガはどう違うのか」という問いの整理
「瞑想とヨガの違い」という検索をされる方の多くは、次のような疑問を持っています。ヨガ教室に通っているが、瞑想もしたほうがよいのか。瞑想を始めたいが、ヨガから入るべきか。ヨガの最後にやる静かな時間は瞑想なのか。
この問いに答えるには、まず「ヨガ」という言葉が、時代と場所によって、指すものが大きく違うことを知っておく必要があります。古代インドの古典に書かれたヨガと、現代の日本のスタジオで行われるヨガは、同じ言葉で呼ばれていますが、中身の重心がかなり異なります。
以下、三つの視点から整理します。古典のヨガ、現代のヨガ、そして仏教の瞑想です。
古典のヨガ — 瞑想は八支則の最終段階
ヨガの古典としてもっとも広く読まれているのが、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』です。この書は、ヨガを八つの段階(八支則、アシュタンガ)として説いています。
- ヤマ(禁戒):してはならないこと。非暴力、正直など。
- ニヤマ(勧戒):すべきこと。清浄、満足など。
- アーサナ(坐法):姿勢。
- プラーナーヤーマ(調気):呼吸の制御。
- プラティヤーハーラ(制感):感覚を外から引き戻す。
- ダーラナー(凝念):一点に心を留める。
- ディヤーナ(静慮):留めた心が途切れず続く状態。
- サマーディ(三昧):心と対象が一つになる状態。
ここで注目したいのは、「アーサナ」が八つのうちの三番目にすぎず、しかも古典におけるアーサナは「安定して快適な座り方」を指していた、という点です。現代のヨガで行われる多様なポーズは、古典にはほとんど書かれていません。
そして、六番目から八番目のダーラナー・ディヤーナ・サマーディが、瞑想にあたります。つまり古典のヨガでは、瞑想はヨガの一部であり、しかもヨガが最終的に向かう段階です。ヤマ・ニヤマで生活を整え、アーサナで体を整え、プラーナーヤーマで息を整え、その先に瞑想がある。この順序が、古典のヨガの骨格です。
現代のヨガ — ポーズと呼吸が中心、瞑想は締めくくり
現代の日本で「ヨガ」と言えば、多くの場合、スタジオやスポーツクラブで行われる、ポーズ(アーサナ)を中心としたクラスを指します。ハタヨガ、アシュタンガヨガ、ホットヨガ、リラックス系のヨガなど流派は多様ですが、体を動かし、呼吸と合わせ、柔軟性や体幹を整えることに時間の大半が使われます。
クラスの終わりには、仰向けになって体を休める「シャヴァーサナ」や、座って呼吸に意識を向ける短い時間が置かれることが一般的です。これが、現代のヨガにおける瞑想の位置です。クラス全体の中では短く、締めくくりとしての役割が大きい。
これは、劣っているということではありません。現代のヨガは、体から入るという明確な長所を持っています。体が固く、呼吸が浅く、いきなり座っても落ち着かない人にとって、まず体を動かし、ほぐし、呼吸を深くしてから静かになる、という流れは、理にかなっています。古典の八支則の順序、「体を整えてから瞑想へ」を、一回のクラスの中で縮めて行っているとも言えます。
一方で、瞑想を深めたい人にとっては、現代のヨガのクラスだけでは物足りなくなることがあります。瞑想の時間が短く、体系的な指導が少なく、「瞑想の中で何が起きるか」を扱う機会が限られるためです。そう感じたときが、瞑想そのものを学び始めるときです。ヨガ講師の方については ヨガ講師が瞑想を深めるには に別にまとめています。
仏教の瞑想 — 瞑想そのものが中心
仏教は、瞑想を中心に置いた宗教です。釈尊は、当時のインドの瞑想の伝統の中で修行し、その上に独自の体系を築きました。ヨガと仏教は、同じインドの土壌から生まれた、いわば近い親戚です。
仏教の瞑想は、大きくサマタ(止)とヴィパッサナー(観)に分けられます。サマタは、一つの対象に心を留めて静める瞑想。ヴィパッサナーは、心身の現象をありのままに観る瞑想。この二つを軸に、坐禅、止観、慈悲の瞑想、密教の観想法など、多くの方法が発展しました。
ヨガとの関係で言えば、ヨガの八支則の後半(ダーラナー・ディヤーナ・サマーディ)と、仏教のサマタは、心を一点に集める点で重なります。ディヤーナという言葉が漢訳されて「禅那(ぜんな)」となり、それが「禅」という言葉になったことは、両者のつながりを示しています。
違いがあるとすれば、仏教では瞑想を「心を静める」ところで終わらせず、静まった心で「ありのままを観る」ヴィパッサナーへと進める点、そして瞑想の目的を、苦しみからの解放という仏教の教えの中に置いている点です。ただしこれは優劣ではなく、何を目指すかの違いです。
仏教の瞑想では、体の扱いは比較的シンプルです。結跏趺坐、半跏坐、椅子のいずれでもよく、背骨が自然に立っていればよい。ポーズによって体を整える段階を、ヨガほど細かくは持ちません。その代わり、座った後の、呼吸・雑念・眠気・感情との付き合い方について、長い経験の蓄積があります。仏教の瞑想 — 止観・禅・密教の違い と ヨガの瞑想と仏教の瞑想 もご覧ください。
どちらを選ぶか — 目安
瞑想とヨガ、どちらから始めるべきか。目安を示します。
ヨガから入るのが向いている人。体が固い、肩や腰が凝っている、座るとすぐ落ち着かなくなる、動いているほうが気が紛れる。こうした方は、体から入るヨガのほうが、無理なく続きます。ヨガで体と呼吸が整ってから、瞑想を深めても遅くありません。
瞑想から入るのが向いている人。体を動かすことに関心がない、むしろ静かに座りたい、心の落ち着きを求めている、人生後半を整えたい。こうした方は、椅子に座って10分、息を数えることから始めるのが近道です。ヨガのポーズを経由する必要はありません。
両方を行う人。ヨガで体を整え、別に瞑想の時間を持つ。これはもっとも古典の八支則に近い形です。ただし、瞑想は、ヨガのクラスの締めくくりとは別に、一人で座る時間を持つことを勧めます。
どれを選んでも、正解です。大切なのは、「続けられる入口」を選ぶことです。
よくある誤解
「ヨガは体、瞑想は心」という分け方。分かりやすい図式ですが、正確ではありません。古典のヨガは心を目指す体系であり、仏教の瞑想も体(姿勢・呼吸)を整えることから始めます。両者とも、体と心の両方を扱います。重心の置き方が違うだけです。
「瞑想はヨガの上級編」という考え方。八支則の順序から、そう見えるかもしれません。しかし、瞑想はヨガをしていなくても始められます。ヨガを経ないと瞑想ができない、ということはありません。
「ヨガをしていれば瞑想はしている」という考え方。クラスの最後の静かな時間は、瞑想の入口ではありますが、瞑想を深めるには、それだけでは足りないことが多いものです。
「瞑想は仏教、ヨガはヒンドゥー教」という宗教の線引き。歴史的にはそうした背景がありますが、現代の実践は、信仰を問わずに行われています。瞑想も、ヨガも、宗教を信じていなくても取り組めます。瞑想は宗教か — 信仰がなくてもできるか をご覧ください。
康照から、ひとこと
私は、ヨガを低く見たことはありません。
体から入り、息を整え、それから心を静める。その順序は、仏教の瞑想と同じだと思っています。
ただ、「ヨガをしているから、瞑想はもういい」とは、ならないのではないでしょうか。
クラスの最後の数分と、一人で座る10分は、違うものです。
どちらが上ということではありません。
体から入る人も、心から入る人も、たどり着く場所は、そう遠くないと思っています。
続けられる入口を、選んでいただければ十分です。
よくある質問
ヨガの最後の静かな時間は、瞑想ですか
瞑想の入口と言ってよいでしょう。ただ、瞑想を深めるには、クラスとは別に、一人で座る時間を持つことを勧めます。
瞑想をするのに、ヨガは必要ですか
必要ありません。椅子に座って息を数えることから、瞑想は始められます。体が固くて座りにくい方には、ヨガが助けになることはあります。
ヨガと瞑想、同じ日に両方やってもよいですか
かまいません。ヨガで体を整えた後に瞑想する、という流れは、古典の八支則の順序に近いものです。
仏教の瞑想とヨガの瞑想は、やり方が違いますか
心を一点に集める段階は、大きく重なります。仏教では、その先に「ありのままを観る」ヴィパッサナーの段階を置く点と、姿勢や呼吸の扱いがシンプルである点が、違いと言えます。ヨガの瞑想と仏教の瞑想 をご覧ください。


