瞑想と祈りの違いを一言で言えば、祈りには「向かう相手」と「願い」があり、瞑想は心を静め、観ることそのものが中心にある、ということです。
ただし両者は、はっきり分かれるものではなく、仏教にもキリスト教にも、祈りが瞑想に近づく実践と、瞑想が祈りに近づく実践があります。
信仰のない人にとって、瞑想は祈りの代わりではなく、祈りとは別の入口から、同じ静けさに至る道と考えてよいでしょう。
祈りとは何か、瞑想とは何か
まず、二つの言葉を、できるだけ素朴に定義してみます。
祈りとは、自分より大きな何か——仏、神、亡くなった人、あるいは名づけようのない存在——に向かって、心を差し出す行為です。そこには多くの場合、「向かう相手」と、「願い」や「感謝」といった内容があります。「どうか無事でありますように」「ありがとうございます」。言葉になることもあれば、ならないこともあります。
瞑想とは、自分の心を一つの対象に留めて静めたり(サマタ・止)、心身の現象をありのままに観たり(ヴィパッサナー・観)する行為です。そこには、必ずしも「向かう相手」はありません。願いもありません。ただ、呼吸を数え、浮かぶものを流し、静まった心で今を観ます。
この定義で見ると、祈りは「外に向かう」、瞑想は「内に向かう」と言えそうです。祈りは関係の行為であり、瞑想は観察の行為である、と言ってもよいでしょう。
ただ、この整理は入口にすぎません。実際の宗教の実践は、もっと入り組んでいます。
仏教の祈り — 回向と祈願
仏教には、瞑想だけでなく、祈りもあります。代表的なものが、回向(えこう)と祈願(きがん)です。
回向とは、自分が行った善い行い——読経、供養、布施、そして瞑想——の功徳を、他者や亡くなった人に振り向けることです。法要で僧侶が読経した後に唱える回向文は、「この功徳を、すべての生きとし生けるものと分かち合い、ともに仏の道を成就しますように」という内容です。これは、願いを持ち、向かう先を持つという意味で、祈りの形をしています。
祈願とは、病気平癒、家内安全、合格、商売繁盛など、具体的な願いを仏に向けて祈ることです。各宗派の寺院で、護摩や祈祷として行われています。真言宗にも祈願の行法がありますが、これは真言宗に限ったものではなく、仏教全体に広く見られる実践です。
ここで興味深いのは、仏教の祈りが、瞑想と地続きだということです。たとえば、慈悲の瞑想(メッタ)は、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と心の中で念じる瞑想です。これは、瞑想でありながら、願いを持ち、向かう先を持つ。祈りと瞑想の境目にある実践です。
また、密教の観想法では、仏の姿を心に思い描き、その仏と自分が一つになることを目指します。これも、対象を持つ点で祈りに近く、心を一点に留める点で瞑想に近い。仏教は、祈りと瞑想を、対立するものとしてではなく、連続するものとして扱ってきました。慈悲の瞑想(メッタ)とは と 真言と瞑想 もご覧ください。
キリスト教の祈り — 黙想と観想的祈り
キリスト教にも、瞑想に近い祈りの伝統があります。ここは公平に触れておきたいところです。
キリスト教の祈りと言えば、言葉で神に語りかける祈り(口祷)を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、修道院の伝統の中には、言葉を少なくし、沈黙の中で神と向き合う祈りが古くからあります。
代表的なものが「黙想(メディタチオ)」と「観想(コンテンプラチオ)」です。黙想は、聖書の一節などを心の中でゆっくり味わい、思いを巡らせる祈り。観想は、思いを巡らせることさえ手放し、ただ神の前に静かにとどまる祈りです。中世の修道院で整えられた「レクチオ・ディヴィナ(聖なる読書)」は、読む(レクチオ)、黙想する(メディタチオ)、祈る(オラチオ)、観想する(コンテンプラチオ)という四つの段階を持ち、言葉から沈黙へと深まっていきます。
二十世紀には、この観想の伝統を現代の人に開くために、「センタリング・プレイヤー(中心への祈り)」と呼ばれる方法が、カトリックの修道士たちによって整えられました。一つの聖なる言葉を心に置き、思いが浮かんだらその言葉に静かに戻る、という方法です。
この「一つの言葉に心を置き、浮かんだ思いを流して戻る」というやり方は、仏教のサマタ(止)や、真言を唱える瞑想と、形の上でよく似ています。向かう相手が「神」であるという点が、仏教の瞑想との大きな違いですが、心の動かし方そのものは、驚くほど近いのです。
瞑想と祈りは、どこで分かれ、どこで重なるか
以上を踏まえて、整理します。
分かれるところ。祈りには、向かう相手と、願い(または感謝)があります。瞑想には、原則として、それがありません。祈りは関係の行為で、瞑想は観察の行為です。祈りは「誰かに」、瞑想は「ただ」。この違いは、確かにあります。
重なるところ。仏教の慈悲の瞑想や観想法、キリスト教の観想的祈りのように、祈りが瞑想に近づく実践は、どの伝統にもあります。逆に、瞑想を続けていると、言葉にならない感謝や、自分より大きなものへの畏れが自然に生まれ、瞑想が祈りに近づくこともあります。
順序の違い。祈りは、願いから入って、静けさに至ることがあります。瞑想は、静けさから入って、願いや感謝に至ることがあります。入口は違っても、たどり着く場所は、そう遠くないのかもしれません。
体の使い方。興味深いことに、祈りも瞑想も、姿勢を整え、呼吸を静め、目を閉じるか半眼にし、手を組むか合わせる、という点で似ています。人が内側に向かうとき、体の形は、宗教を越えて似てくるようです。
信仰がない人にとって、瞑想は祈りの代わりになるか
「宗教は信じていないが、祈りたい気持ちはある」という方がいます。あるいは、「瞑想は祈りの、宗教色を抜いた版なのか」と問われることもあります。
私の考えでは、瞑想は、祈りの代わりではありません。祈りの「相手」を抜いたものが瞑想、というわけでもありません。瞑想は、祈りとは別の入口です。相手を立てずに、ただ心を静め、観る。それだけで、瞑想は成り立ちます。信仰は必要ありません。
ただ、瞑想を続けていると、相手を立てていないのに、「ありがたい」という感覚が湧いてくることがあります。息をしていること、今日も座れたこと、生きていること。それに対する感謝は、誰に向けるでもなく、ただそこにある。それを祈りと呼ぶかどうかは、ご自身の自由です。呼ばなくても、瞑想は瞑想です。瞑想は宗教か — 信仰がなくてもできるか をご覧ください。
一方で、信仰を持っている方が瞑想をすることも、まったく問題ありません。キリスト教徒の方が、観想的祈りの一つの形として呼吸を数えることも、仏教徒の方が、回向の心で座ることもできます。瞑想は、信仰と競合しません。
康照から、ひとこと
私は、葬儀や法要で、回向の言葉を唱えています。
それは祈りです。向かう先があり、願いがあります。
一方で、朝や夜に、一人で座って息を数える時間は、誰に向かうでもない時間です。
この二つは、私の中で、分かれているようで、分かれていません。
座っていると、自然に手を合わせたくなる日があります。
祈っていると、言葉が消えて、ただ静かになる日があります。
祈りと瞑想は、別の入口から入って、同じ部屋に出るものではないでしょうか。
どちらの入口から入っても、よいと思っています。
よくある質問
瞑想中に、願いごとをしてもよいですか
瞑想の時間は、原則として願いを置かず、呼吸と今に戻る時間です。願いがあるなら、瞑想の前か後に、別に祈る時間を持つと、両方がはっきりします。ただし、慈悲の瞑想のように、願いを持つ瞑想もあります。
仏壇の前で座るのは、祈りですか、瞑想ですか
手を合わせて故人や仏に向かうなら祈り、そのまま目を閉じて息を数えるなら瞑想です。一つの時間の中で、両方を続けて行ってもかまいません。大切な人を亡くした後の瞑想 もご覧ください。
キリスト教徒ですが、仏教の瞑想をしてもよいですか
差し支えないと思います。息を数える、心を一点に留めるという方法自体は、特定の信仰を要求しません。キリスト教の観想的祈りの伝統にも、近い方法があります。ご自身の信仰の指導者に相談されるのもよいでしょう。
祈りと瞑想、どちらが「効く」のですか
比べるものではありません。願いを差し出したいなら祈り、心を静めて観たいなら瞑想です。どちらにも、医療的な効果を断定することはできません。
真言を唱えるのは、祈りですか、瞑想ですか
両方の性格があります。真言を唱えることは仏に向かう行為であり、同時に、一つの音に心を留める瞑想でもあります。真言と瞑想 をご覧ください。


