ヨガ講師が瞑想を深めるには — 導く側から、座る側へ戻る三つの道

対象・場面別

ヨガ講師が瞑想を深めるには、「導く側」から一度「座る側」に戻ることがもっとも確かな道です。
クラスで誘導はできても、自分一人で静かに座る時間が足りていない、という方が少なくありません。
ヨガの瞑想を否定する必要はなく、その土台の上に、仏教の瞑想の体系と、自分自身の毎日の実践を重ねていけばよいのです。

ヨガ講師が瞑想で行き詰まる、三つの場面

ヨガ講師の方が瞑想で抱える悩みはさまざまですが、整理すると三つの場面に集まります。

一つ目は、「誘導はできるが、自分が座れていない」という場面です。クラスの最後に、生徒さんを仰向けにし、呼吸に意識を向けさせ、静かな声で誘導する。それは上手にできる。しかし、自分一人で、誰も導かずに、ただ座る時間が持てていない。「私は瞑想を教えているのに、瞑想していないのではないか」という後ろめたさを抱えている方がいます。

二つ目は、「瞑想の中で何が起きているのか、説明できない」という場面です。生徒さんから「雑念が消えません」「眠くなります」「涙が出ました」と言われたとき、自分の経験から答えられない。本で読んだ答えを返すしかなく、それが自分でも分かってしまう。

三つ目は、「ヨガの瞑想の先に何があるのか分からない」という場面です。アーサナ(ポーズ)と呼吸法の先に瞑想があることは知っている。しかし、その瞑想がどこへ向かうものなのか、体系として見えていない。養成講座では瞑想の時間が限られていたため、学び直したいと思っている。

この三つは、別々の問題ではありません。いずれも、「自分自身の実践の深さ」に根があります。

ヨガの瞑想と仏教の瞑想 — 土台は共有されている

まず確認しておきたいのは、ヨガの瞑想と仏教の瞑想は、敵対するものでも、どちらかが上位にあるものでもない、ということです。

ヨガの古典であるパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』は、八支則(アシュタンガ)という八つの段階を説きます。禁戒(ヤマ)、勧戒(ニヤマ)、坐法(アーサナ)、調気(プラーナーヤーマ)、制感(プラティヤーハーラ)、凝念(ダーラナー)、静慮(ディヤーナ)、三昧(サマーディ)。このうち後半の三つ、ダーラナー・ディヤーナ・サマーディが、瞑想の段階にあたります。

一方、仏教の瞑想は、大きくサマタ(止)とヴィパッサナー(観)に分けられます。サマタは一つの対象に心を留めて静める瞑想、ヴィパッサナーは心身の現象をありのままに観る瞑想です。釈尊はインドの瞑想の伝統の中で修行し、その上に独自の体系を築きました。ディヤーナという言葉が漢訳されて「禅那」となり、「禅」という言葉になったことからも、両者の根が近いことが分かります。

ですから、ヨガ講師が仏教の瞑想を学ぶことは、「乗り換え」ではありません。すでに持っている土台の上に、別の角度からの体系を重ねることです。両者の違いについては 瞑想とヨガの違い と ヨガの瞑想と仏教の瞑想 に詳しくまとめています。

第一の道 — 自分の毎日の実践を持つ

瞑想を深める道の第一は、単純ですが、自分自身が毎日座ることです。

クラスでの誘導瞑想は、自分の瞑想にはなりません。声を出し、生徒さんの様子を見て、時間を管理している間、自分の心は外を向いています。それは指導であって、実践ではありません。

勧めたいのは、クラスとは別に、一人で、誰も導かず、10分座る時間を持つことです。朝でも夜でもかまいません。姿勢は、ヨガで慣れた坐法でよいですし、椅子でもかまいません。

やり方は、数息観(すそくかん)から入るのが確かです。吐く息で「ひとつ」、次の吐く息で「ふたつ」と心の中で数え、10まで数えたら「ひとつ」に戻ります。雑念が浮かんだら、消そうとせず、「浮かんだな」と気づいて数に戻ります。眠気が出たら、目を軽く開けて半眼にします。

この10分を続けていると、生徒さんが口にする「雑念が消えない」「眠くなる」「涙が出た」が、自分の体験として分かるようになります。説明は、本の言葉ではなく、自分の言葉になります。それが、指導の質を変えます。瞑想を習慣にする方法 もご覧ください。

第二の道 — サマタとヴィパッサナーの体系を学ぶ

第二の道は、仏教の瞑想の体系を、知識として学ぶことです。

ヨガの養成講座では、瞑想は多くの場合、八支則の一部として、あるいはクラスの締めくくりの技法として扱われます。それに対して仏教は、瞑想そのものを中心に、二千数百年にわたって体系を磨いてきました。心を一点に留めるサマタ(止)、観察するヴィパッサナー(観)、両者を統合した止観、慈悲を育てるメッタ、体の感覚を順に観るボディスキャンに通じる観法、真言や観想を用いる密教の瞑想など、目的に応じた多くの方法があります。

これらを学ぶと、自分がクラスで行っている誘導が、体系のどこに位置するのかが見えてきます。「呼吸に意識を向ける」はサマタの入口であり、「浮かんでは消える思考を眺める」はヴィパッサナーの入口である、というように。位置が分かれば、生徒さんへの説明も、次の段階への導き方も変わります。

サマタ瞑想(止)とは、ヴィパッサナー瞑想とは、仏教の瞑想 — 止観・禅・密教の違い から読み始めるとよいでしょう。

第三の道 — 師のいる場に身を置く

第三の道は、自分が「生徒」になれる場に身を置くことです。

ヨガ講師は、スタジオでは常に教える側です。教える側に立ち続けると、自分の実践を見てくれる人がいなくなります。姿勢の癖、呼吸の浅さ、雑念との付き合い方。自分では気づけないことを指摘してくれる存在が、瞑想を深めるうえでは欠かせません。

寺院の坐禅会や瞑想会は、そのための場として古くから開かれています。禅宗の寺院では坐禅会が、天台宗や真言宗の寺院では止観や阿字観の体験会が、各地で行われています。こうした場では、ヨガ講師という肩書きは関係ありません。初めて座る人と同じ列に並び、同じ時間を座り、僧侶から同じ注意を受けます。それが、導く側から座る側に戻る、もっとも早い方法です。

また、ヨガの世界の中にも、瞑想に重きを置いた指導者養成講座があり、数日間の集中講座から数十時間の課程まで、時間数や形式はさまざまです。資格や講座の選び方については 瞑想の資格は意味があるか に、公平な判断材料をまとめています。

いずれの道を選ぶにせよ、大切なのは、「教わる経験」を自分の中に持ち続けることです。

クラスでの瞑想指導が変わること

自分の実践が深まると、クラスでの瞑想指導は、自然に変わります。

誘導の言葉が減ります。以前は沈黙が怖くて言葉で埋めていた時間に、沈黙を置けるようになります。生徒さんの「できません」に対して、「私もそうでした」と言えるようになります。瞑想の時間を、クラスの締めくくりの飾りではなく、クラスの中心に置けるようになります。

そして、生徒さんに「瞑想は長く続けるものだ」ということを、言葉ではなく、自分の在り方で伝えられるようになります。

康照から、ひとこと

私は、ヨガの瞑想を低く見たことはありません。
体から入り、息を整え、心を静める。その順序は、仏教の瞑想とまったく同じだと思っています。
ただ、ヨガ講師の方について感じるのは、「導くことに慣れすぎている」ということです。
導く人は、導かれる時間を失いやすいのではないでしょうか。
一人で、誰にも導かれず、10分座る。
あるいは、初心者と同じ列に並んで、僧侶に姿勢を直される。
その時間が、クラスでのあなたの沈黙を、深くしてくれると思っています。

よくある質問

ヨガの瞑想と仏教の瞑想、どちらを学ぶべきですか

どちらかを選ぶ必要はありません。両者は根が近く、ヨガの土台の上に仏教の体系を重ねることができます。まず自分の毎日の実践を持ち、そのうえで体系を学ぶ、という順序を勧めます。

阿字観や坐禅の体験会は、仏教徒でなくても参加できますか

多くの寺院で、宗派や信仰を問わずに受け入れています。参加前に、各寺院の案内を確認してください。

生徒さんに仏教の瞑想を教えてもよいですか

ご自身が実践し、体系を理解したうえで、サマタやヴィパッサナーの考え方をクラスに取り入れることは差し支えないでしょう。ただし、密教の行法のように伝授を要するものは、本来、師から直接受けるものです。

誘導瞑想は、自分の瞑想になりませんか

声を出して導いている間は、心が外を向いているため、自分の瞑想にはなりにくいものです。別に、一人で座る時間を持ってください。誘導瞑想(ガイド瞑想)とは もご覧ください。

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