僧侶の一日は、本堂での勤行(ごんぎょう。読経や真言を唱える日々のお勤め)、掃除、葬儀や法要などの法務、そして人によっては座る瞑想で組み立てられています。
勤行は、声に心を留め、他の思いから離れるという構造を持つため、広い意味では瞑想の一つの形と言えますが、目的は供養や報恩にあり、座る瞑想とは重心が異なります。
私自身は、勤行とは別に、毎日10分から60分、朝または夜に、主にサマタ(止)の瞑想を続けています。このページでは、僧侶の瞑想の実際を、事実の範囲で率直に述べます。
僧侶は毎日瞑想しているのか
「僧侶は毎日長時間、瞑想しているのだろう」と思われることがあります。実際には、宗派と立場によって大きく異なります。
禅宗の修行道場では、坐禅が一日の中心に置かれ、朝と夜に決まった時間、座ります。上座部仏教の僧院でも、瞑想が日課の軸になります。一方、日本の多くの寺院では、僧侶の一日の中心は勤行と法務であり、座る瞑想を日課として持つかどうかは、個人の選択に委ねられています。真言宗も同様で、本山や専門の修行道場を離れ、地域の寺院で活動する僧侶の場合、瞑想の時間は自分で作るものです。
ですから、「僧侶だから毎日瞑想している」とは一概に言えません。瞑想を日課にしている僧侶もいれば、勤行をもって日々の修行としている僧侶もいます。どちらが本来の姿かという問いには、あまり意味がありません。仏教の修行は戒・定・慧の三学であり、勤行も、掃除も、法要も、人と向き合うことも、すべてその一部だからです。
寺院の一日の大まかな流れ
寺院の一日は、おおよそ次のような要素で組み立てられています。細部は宗派や寺院によって異なりますので、あくまで大枠としてお読みください。
朝は、本堂での勤行から始まることが多いです。本尊に向かい、経典や真言を唱え、一日の始まりを仏に報告します。その後、境内や本堂の掃除があります。掃除は、禅宗では作務(さむ)として修行の一部に位置づけられていますが、他の宗派でも、心を整える時間として大切にされています。
日中は、法務です。葬儀、法要、月参り、相談ごと、寺院の運営や事務。地域の寺院の僧侶の一日は、この法務が大半を占めます。夕方または夜に、再び勤行を行う寺院も多くあります。
座る瞑想は、この流れの中のどこかに、各自が置きます。朝の勤行の前後、あるいは夜、法務が終わった後。決まった枠があるわけではなく、自分で守る時間です。
私自身の毎日の瞑想
私の場合について、事実の範囲で述べます。
私は、毎日、短い日は10分、長い日は60分、座る瞑想を行っています。時間帯は朝または夜で、その日の法務の都合によります。行う瞑想は、サマタ(止)の瞑想が多く、呼吸を数える数息観から入ります。姿勢は、結跏趺坐でも半跏坐でも椅子でもよいと考えており、その日の体の調子で選びます。雑念は消そうとせず、流します。眠気が強いときは、目を開けて行います。
長時間座ることを自分に課してはいません。10分の日があってもよい、という緩さが、続けるための条件だと思っています。瞑想を日課にするということは、長く座ることではなく、座らない日を作らないことだと考えています。瞑想を習慣にする方法 と 瞑想は何分やればいいか で述べていることは、私自身の実践の実感でもあります。
なお、私は50歳を過ぎてから瞑想を始めました。若い頃から座ってきたわけではありません。だからこそ、人生の後半から始める人の戸惑いが、自分のこととして分かるつもりです。
法要と読経 — 般若心経と光明真言
僧侶の一日のもう一つの柱が、葬儀や法要での読経です。私は、法要の場で般若心経と光明真言を唱えます。般若心経は、「色即是空」の句で知られる短い経典で、すべてのものに固定した実体がないこと(空)を説きます。光明真言は、大日如来の光明によって罪や苦しみが除かれることを願う真言で、真言宗では亡くなった方の供養に広く用いられます。
法要での読経は、ご遺族のため、亡くなった方のために行うものです。自分の心を整えるために唱えているわけではありません。しかし、声に出して唱えているとき、心は確かに、経典の言葉と声に留まっています。他の思いは、唱えている間、脇に退きます。この状態は、構造の上では、心を一つの対象に留める止(サマタ)の瞑想と同じです。般若心経と瞑想 と 真言と瞑想 — 唱えることの意味 で詳しく述べています。
勤行は瞑想か
ここで、このページの中心の問いに答えます。勤行は瞑想なのでしょうか。
結論から言えば、「構造は瞑想と重なるが、目的が違う」と私は考えています。
構造の面では、勤行は瞑想の要素を備えています。姿勢を正し、呼吸を整え、声に心を留め、雑念から離れる。密教の言葉で言えば、体(身密)、言葉(口密)、心(意密)を同時に働かせる三密の実践です。真言を唱えることは口密にあたり、密教の瞑想の一部をなします。三密とは — 身口意を整える をご覧ください。
一方、目的の面では、勤行と座る瞑想は異なります。勤行は、仏に向かい、供養し、報恩し、願う行為です。向いている先が、仏や亡くなった方、ご遺族にあります。座る瞑想は、自分の心を静め、心の本来の姿を観る行為で、向いている先は自分の内側にあります。祈りと瞑想の違いについては 瞑想と祈りの違い で述べていますが、勤行はその中間にあって、祈りの形をとりながら、瞑想の構造を持っているものだと言えます。
ですから、「勤行をしているから瞑想は要らない」とも、「勤行は瞑想ではない」とも、私は言いません。勤行は、心を整える働きを確かに持っています。しかし、自分の心の内側をじっくり観る時間は、勤行とは別に必要だと感じています。だから私は、勤行とは別に、座る時間を持っています。
座る瞑想と、動く修行のあいだ
僧侶の一日を見ると、座っている時間よりも、動いている時間のほうが圧倒的に長いことが分かります。掃除をし、読経をし、人と話し、事務をする。この動いている時間を、修行の外に置いてしまうと、修行は一日のごく一部になってしまいます。
仏教の伝統は、この点について早くから答えを持っていました。禅宗は作務を坐禅と同じ修行として扱い、天台の止観は日常のあらゆる動作の中で行う非行非坐三昧を説き、密教は真言を唱えることを三密の実践としました。座ること以外の時間も、心を一つの行為に留め、雑念を流すという点で、瞑想と同じ構造を持ち得るのです。動く瞑想(写経・読経・掃除・作務) で詳しく述べています。
これは、僧侶だけの話ではありません。仕事をし、家事をし、人と話す。その一つ一つに心を置くことは、誰にでもできる修行です。座る時間が取れない日も、その日の掃除や料理に心を置けば、修行は途切れていません。僧侶の一日は、特別な一日ではなく、誰の一日にも通じる構造を持っていると思っています。
康照から、ひとこと
僧侶だから毎日長く座っている、と思われることがあります。
実際の私は、10分の日もあります。
法要が重なった日は、夜にようやく座ります。
それでも、座らない日は作らないようにしています。
僧侶の一日は、座ることより、動くことのほうが多いのです。
読経し、掃除し、人と向き合う。
私は、その一つ一つが、座ることと切れていないと思っています。
座るのは、動いている時間の自分を、一度静かに確かめるためではないでしょうか。
10分でも、その確かめは、できると思っています。
よくある質問
僧侶は何時間くらい瞑想しているのですか。
宗派と立場によって大きく異なります。禅宗や上座部の修行道場では、一日の中心が瞑想です。地域の寺院で活動する僧侶の場合、瞑想の時間は各自が作るもので、私自身は毎日10分から60分です。「僧侶だから長時間」というわけではありません。
勤行(読経)をすれば、瞑想の代わりになりますか。
構造の上では重なりますが、目的が違います。勤行は仏や亡くなった方に向かう行為で、座る瞑想は自分の心の内側を観る行為です。勤行で心が整う実感は確かにありますが、内側をじっくり観る時間は、別に持つほうがよいと私は考えています。
在家でも、僧侶と同じように勤行をしてよいですか。
もちろんです。朝に般若心経を一巻唱えるだけでも、心を一つに留める時間になります。細かな作法にこだわる必要はありません。声に心を留め、終わったら静かに座る。それで十分です。
僧侶も雑念が湧くのですか。
湧きます。僧侶だから雑念がないということはありません。違いがあるとすれば、雑念を消そうとせず、流すことに慣れているかどうかだけだと思います。瞑想中に雑念が消えないとき をご覧ください。


