空海の瞑想 — 求聞持法から阿字観まで、弘法大師が坐った道

仏教・密教の瞑想

空海(くうかい。弘法大師)は、真言宗の開祖であり、日本に密教の瞑想を体系として伝えた人物です。
若き日に虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という行に打ち込み、四国の山と海辺で坐った体験が、仏教の道を選ぶ決定的な転機になったと、自らの著作『三教指帰』に記しています。
唐で密教を授かって帰国した後、三密の行、月輪観・阿字観をはじめとする観法を伝え、晩年は高野山で坐ったまま入定したと伝えられます。本稿では、その歩みを歴史的事実として辿ります。行法の内容そのものは扱いません。

若き日の空海 — 大学から山へ

空海は、774年、讃岐国(現在の香川県)に生まれました。幼名は真魚(まお)と伝えられます。地方豪族の家に育ち、若くして都に上り、官吏を養成する大学で儒教の学問を学びました。当時の大学は、官僚として出世するための道であり、空海は、その道を歩むことを期待されていました。

ところが、空海はその道を離れます。『三教指帰』の序文によれば、一人の修行僧から虚空蔵求聞持法を教わったことがきっかけでした。虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ。限りない智慧と記憶の徳を持つ菩薩)を本尊とする行法で、記憶の力を得るために行われるものです。行の内容は伝授に属するため、ここでは述べません。

空海は、この行を修めるために大学を離れ、山に入ります。『三教指帰』には、阿波(徳島県)の大滝嶽に登り、土佐(高知県)の室戸岬で坐ったことが記されています。室戸岬では、岬の洞窟で行に打ち込み、「谷は声を惜しまず響き、明星が来て影を映した」という、よく知られた一節が残されています。明星が口に飛び込んだという伝承もありますが、『三教指帰』自体の記述は、明星が現れた、という簡潔なものです。

この体験が、空海にとって決定的な転機になりました。学問による出世の道を捨て、仏教の修行者として生きることを、ここで決めたのです。

『三教指帰』— 瞑想体験を踏まえた最初の著作

『三教指帰(さんごうしいき)』は、空海が24歳のときに著したとされる最初の著作です。儒教・道教・仏教の三つの教えを、登場人物の対話という形で比較し、仏教こそがもっとも深い道であると結論づける内容です。

この書物が興味深いのは、理論としての比較に先立って、著者自身の瞑想体験があることです。序文に記された求聞持法と室戸岬の体験は、空海が「仏教が深い」と頭で判断したのではなく、坐って確かめたうえでそう述べていることを示しています。

また『三教指帰』は、出家を反対する家族や周囲への、弁明の書でもありました。官吏の道を捨てて山に入る息子を、家族は理解しなかったと考えられます。空海は、自分の選択の理由を、三つの教えの比較という形で、論理的に示す必要があったのです。瞑想体験と、それを言葉にして周囲に説明する努力の両方が、この一冊に込められています。

唐での伝法 — 恵果から密教を授かる

空海は、804年、遣唐使の一員として唐に渡ります。都の長安で、青龍寺の恵果(けいか)という高僧に出会い、短い期間のうちに密教の奥義を授けられました。伝法灌頂(でんぽうかんじょう。密教を正式に継承する儀式)を受け、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という名を与えられています。

恵果は、『大日経』の系統と『金剛頂経』の系統という、密教の二つの流れの両方を受け継いでいた人物で、空海は、その両方を授かりました。これが、日本の真言密教が「両部(りょうぶ)」、すなわち胎蔵界と金剛界の二つの曼荼羅を併せ持つ理由です。

空海が唐で学んだ密教の瞑想は、印を結び、真言を唱え、本尊を観ずるという三密の行であり、本尊や曼荼羅を心に観ずる数多くの観法でした。それらは、師から弟子へ、伝授という形で受け継がれるものであり、空海自身も、恵果から直接に授かりました。密教の瞑想が今日まで伝授によって伝えられているのは、この時の形を保っているからです。

空海は、806年に帰国します。唐に滞在したのは、わずか二年ほどでした。

帰国後に伝えた瞑想 — 三密と観法

帰国後、空海は、密教の教えを体系として整え、著作と伝授を通じて広めました。

教えの中心は、三密(身・口・意)の行によって、この身このままで仏の働きと一つになる、という即身成仏の思想です。『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』などの著作で、空海はその理論的な根拠を示しました。また『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』では、人の心の段階を十に分けて論じ、瞑想を通じた心の深まりを、壮大な見取り図として描いています。

瞑想の実践としては、阿字観・月輪観をはじめとする観法が、空海の伝えた密教の中で中心的な位置を占めます。胸の中に満月を観じ、その上に蓮華と梵字「阿」を観ずる。この観法は、空海が伝えた『大日経』の阿字本不生の思想に基づいており、後世の真言宗の中で、在家の人も取り組める瞑想として整えられ、伝えられてきました。

空海はまた、816年に高野山を道場として開き、823年には京都の東寺を授けられ、密教の修行と教学の拠点を築きました。瞑想は、個人の行であると同時に、師から弟子へ伝える仕組みの中に置かれたのです。

高野山での入定

空海は、835年、高野山で生涯を終えました。真言宗の信仰においては、これを死とは呼ばず、「入定(にゅうじょう)」と言います。深い禅定に入ったまま、今も高野山の奥之院で人々を見守り続けている、という信仰です。

歴史の記述としては、空海はこの年に生涯を終えたとされますが、真言宗の信仰の中では、空海は生きた存在として今も礼拝され、奥之院では毎日、食事を供える儀式が続けられています。「同行二人(どうぎょうににん)」という四国遍路の言葉も、お大師さまが常に共にいる、という信仰に基づいています。

瞑想という観点から見ると、入定の信仰は、空海の生涯が、瞑想とともに始まり、瞑想のうちに終わった、という理解を示しています。若き日の室戸岬の坐りから、高野山の最期の坐りまで、空海の道は、坐ることで貫かれていました。

仏教の瞑想の中での空海の位置

空海が伝えた密教の瞑想は、仏教の瞑想の歴史の中で、一つの大きな流れです。しかし、唯一の流れではありません。

空海と同じ時代、最澄は天台の止観を伝え、後に栄西や道元が禅を伝え、法然や親鸞が念仏を広めました。それぞれが、仏教の瞑想を、それぞれの形で日本に根づかせています。空海の密教は、体・言葉・心を同時に用いる観想の瞑想として、その中の一つの道を開きました。

空海の特徴は、瞑想を理論として言葉にする力と、瞑想を実践として坐る体験の、両方を強く持っていたことだと思います。『三教指帰』の室戸岬の記述と、『即身成仏義』の理論とは、同じ人の中でつながっています。坐って確かめ、言葉にして伝える。その両方を一人が担ったことが、空海という人物の稀有な点であり、千二百年後の私たちが、その瞑想を学べる理由でもあります。

よくある誤解

「空海の瞑想は特別な才能がなければできない」 — 空海自身の体験は確かに際立っていますが、空海が伝えた観法は、師から弟子へ、在家の人へと受け継がれ、今日も一般向けの体験会が開かれています。

「求聞持法をすれば記憶力が良くなる」 — 求聞持法は、記憶の徳を求める行として伝えられていますが、効果を保証するものではなく、また伝授を受けて行うものです。独習できる類のものではありません。

「空海は瞑想だけで悟った」 — 空海は、瞑想とともに、膨大な学問と、恵果からの正式な伝授を経て、密教を受け継ぎました。瞑想と学びと伝授の三つが揃っています。

「密教の瞑想は、空海が独自に作ったものである」 — 空海はインドから中国へ伝わった密教を受け継ぎ、整理して伝えた人です。独創の部分は理論の体系化にあり、瞑想そのものは受け継いだものです。

康照から、ひとこと

私は、空海の生涯の中で、『三教指帰』の序文がいちばん好きです。
出世の道を捨てて山に入り、家族に理解されず、それでも坐った若者の言葉だからです。
千二百年前の人が、今の私たちと同じように、「このままでいいのか」と問い、道を変えた。
その始まりに、瞑想の体験があった。
空海を、遠い聖人として仰ぐより、むしろ、人生の途中で道を変えた一人の人として読むほうが、私には近く感じられます。
50歳を過ぎてから瞑想を始めた私にとって、空海の室戸岬は、遅すぎる始まりはない、と教えてくれる場所だと思っています。

よくある質問

空海が行った瞑想を、今の人も学べますか

空海が伝えた観法のうち、月輪観や阿字観は、真言宗の寺院が開く体験会などで、基本的な流れを体験できます。正式な次第は伝授を受けて学びます。阿字観のやり方と意味 をご覧ください。

室戸岬の洞窟は今も見られますか

室戸岬には、空海が修行したと伝えられる洞窟(御厨人窟)があり、訪れることができます。空海が見た空と海が、洞窟の口から今も見えます。

『三教指帰』は現代語で読めますか

複数の現代語訳が出版されています。序文だけでも読むと、空海の出発点が分かります。

空海と最澄の瞑想はどう違いますか

空海は密教の三密の行と観法を、最澄は天台の止観を伝えました。どちらも仏教の正統な瞑想であり、優劣はありません。止観については 止観とは をご覧ください。

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参考文献

  • 空海『三教指帰』
  • 空海『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』