誘導瞑想(ガイド瞑想)とは — 声に導かれる瞑想の長所と限界

瞑想の種類

誘導瞑想(ガイド瞑想)とは、指導者の声や録音された音声の案内に従って行う瞑想です。
「呼吸に注意を向けてください」「足の先を感じてください」と導かれるため、何をすればよいか分からない初心者でも取り組みやすい形です。
仏教の観想も本来は師の言葉に導かれて行うものであり、誘導そのものは新しい発明ではありません。ただし、やがて声なしで坐れるようになることが、誘導瞑想の目指す先です。

誘導瞑想とは何か

瞑想には、自分一人で黙って行うものと、誰かの案内に従って行うものがあります。後者が誘導瞑想です。英語ではガイデッド・メディテーション(guided meditation)と呼ばれ、日本では「ガイド瞑想」「音声瞑想」とも言われます。

案内の内容は、大きく三つに分けられます。

  • 手順の案内:姿勢、呼吸、注意の向け先を、順に言葉で示すもの。ボディスキャンや呼吸瞑想の音声がこれにあたります。
  • 情景の案内:森や海辺などの情景を思い描くよう促すもの。心を落ち着かせる目的で用いられ、イメージ瞑想とも呼ばれます。
  • 思いの案内:「幸せでありますように」など、特定の思いを唱えるよう導くもの。慈悲の瞑想の音声がこれにあたります。

近年は、スマートフォンのアプリや動画によって、誘導瞑想はもっとも身近な瞑想の形になりました。瞑想を始めた人の多くが、最初に出会うのは誘導瞑想だと思います。

誘導瞑想の長所

誘導瞑想には、はっきりした長所があります。

第一に、何をすればよいか迷わないことです。一人で坐ると、「これで合っているのか」「次は何をするのか」という迷いが雑念になります。声が導いてくれれば、その迷いが減ります。

第二に、声が錨(いかり)になることです。考えごとに流されても、次の案内の声が聞こえた瞬間に、瞑想へ戻ることができます。一人で坐っているとき、流されたまま10分が過ぎることは珍しくありません。

第三に、体系的に進められることです。ボディスキャンの順序、慈悲の瞑想の対象の順序など、一定の構造を持つ瞑想は、声の案内があると構造が崩れません。

第四に、安心感があることです。瞑想中に不安や寂しさが出てきたとき、人の声が聞こえていることは、それだけで支えになります。

誘導瞑想の限界

一方で、知っておくべき限界もあります。

一つは、声に頼り続けると、声なしで坐れなくなることです。瞑想の力は、本来、自分で注意を戻すことによって育ちます。声が毎回戻してくれる状態が続くと、自分で戻す筋力が育ちにくくなります。

もう一つは、声の指示が、観察を狭めることです。「リラックスしてください」と言われれば、リラックスしていない自分を否定しがちになります。「静かな湖を思い浮かべてください」と言われれば、浮かんでこない自分を責めがちになります。瞑想は本来、起きていることをあるがままに観るものですが、誘導はときに「こうなるべき」という枠を与えてしまいます。

さらに、案内の質がまちまちであることも、留意すべき点です。音声の中には、瞑想というより暗示や願望の刷り込みに近いものもあります。次の項で述べる自己催眠との違いを知っておくと、選ぶ目安になります。

誘導瞑想と自己催眠・イメージ療法の違い

誘導瞑想は、形のうえで自己催眠やイメージ療法とよく似ています。どちらも横になり、目を閉じ、声に従って心を動かすからです。

違いは、声が心をどこへ連れていくかにあります。自己催眠や暗示は、「あなたは自信に満ちている」「痛みは消えていく」と、ある状態へ心を向かわせます。目的が先にあり、心をそこへ導きます。

瞑想としての誘導は、「今、呼吸はどうなっていますか」「体のどこに感覚がありますか」と、今ここで起きていることへ注意を向かわせます。到達点を決めず、観察を促します。

どちらが良い悪いではなく、働きが違います。自分が今聞いている音声がどちらの性格を持つのか、知っておくことが大切です。瞑想のつもりで聞いていた音声が、実は暗示に近いものだった、ということもあります。瞑想と自己催眠・ヒーリングの違い で詳しく扱います。

仏教から見た誘導瞑想 — 観想は導かれる瞑想である

仏教の側から見ると、誘導瞑想は決して新しいものではありません。

初期仏教の経典そのものが、「比丘たちよ、こうして呼吸を観なさい、こうして体を観なさい」という、釈尊の声による導きの記録です。上座部の瞑想センターでも、指導者が坐る前に手順を語り、坐っている間に短い言葉を添えることが行われます。

密教の観想は、さらにはっきりと「導かれる瞑想」です。月輪観や阿字観は、師僧(しそう)が「胸の中に満月を観じなさい」「その月が次第に広がっていくと観じなさい」と言葉で導き、弟子がそれに従って心に像を描くという形で伝えられてきました。経典や次第(儀式の手順書)に書かれた言葉を、師が声にして弟子を導く。これは千年以上続いてきた誘導瞑想だと言えます。

ただし、伝統の中では、導きは「いずれ手放すもの」として位置づけられています。師の言葉で像を描けるようになったら、次は言葉なしで描く。それができたら、像さえも手放す。導きは梯子であり、登り終えたら外すものです。現代の誘導瞑想も、同じ梯子として使うなら、仏教の実践と何も変わらないと私は思っています。

誘導瞑想から一人の瞑想へ — 声を手放す道筋

誘導瞑想を入口にして、やがて声なしで坐れるようになるための、無理のない道筋を示します。

  1. 同じ音声を繰り返し使う:毎回違う音声を探すより、一つの音声を何度も使うほうが、手順が体に入ります。
  2. 音声の間の沈黙に注意を向ける:案内と案内の間に沈黙がある音声を選び、その沈黙の時間に、自分で注意を戻す練習をします。
  3. 音声の後に数分、一人で坐る:音声が終わっても、すぐに目を開けず、そのまま数分坐ってみます。
  4. 手順を覚えたら、音声なしで試す:うまくいかなくてもかまいません。できない日は、また音声に戻ります。
  5. 一人で坐る日を増やす:週に一日から始め、少しずつ増やします。

目安として、一人で坐れる日が音声を使う日より多くなれば、声は十分にその役目を果たしたと言えます。

よくある誤解

「誘導瞑想は本当の瞑想ではない」 — 導かれることは瞑想の伝統そのものであり、入口として立派な瞑想です。問題は、導かれ続けることにあります。

「声に従えていれば、瞑想は深まっている」 — 声に従うことと、自分の心を観ることは別です。従いながら、自分の注意がどこにあるかを見ていることが大切です。

「情景を思い浮かべられないのは向いていないからである」 — 像を思い描く力には個人差があります。思い描けない方は、呼吸や体の感覚を案内する音声のほうが向いています。

「音声の声が心地よければ、内容はどうでもよい」 — 心地よさと、内容が観察を促しているかは別のことです。先に述べた自己催眠との違いを目安にしてください。

康照から、ひとこと

私も、瞑想の場では声で人を導きます。
「息を数えてください」「逸れたら、また一に戻ってください」と。
けれど、私の声が本当に役に立つのは、その人がいつか、私の声なしで坐れるようになったときだと思っています。
導くことは、手放されるためにある。
それは、親が子を育てることにも、少し似ているのではないでしょうか。
声は、梯子です。
登り終えたら、静かに外して、自分の呼吸だけで坐ってみてください。

よくある質問

誘導瞑想は毎日聞いてもよいですか

よいと思います。ただ、先に述べたように、音声の後に数分、一人で坐る時間を添えることを勧めます。

どの音声を選べばよいですか

「今ここで起きていること」へ注意を向けさせる内容のものを目安にしてください。「こうなります」と状態を約束する内容は、暗示に近いものです。アプリの選び方は 瞑想アプリは使うべきか をご覧ください。

誘導瞑想で眠ってしまいます

横になって聞いているなら、眠ってもかまいません。目覚めたまま行いたいときは、坐って聞いてください。瞑想すると眠くなる原因と対処 をご覧ください。

自分の声で録音して使ってもよいですか

よい方法です。自分の声は、他人の声より暗示性が低く、手順を覚える助けにもなります。

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